◆読書会 活動報告 2017年◆
2017年 9月14日(木) 参加者7名
読んだ本:
「緋色の研究」
コナンドイル著 新潮文庫、光文社(古典新訳)など
この本はシャーロックホームズ・シリーズの最初にあたり、1887年に発表されました。
主人公のホームズがワトソン博士とどうやって知り合ったかから始まり、ホームズの日常やら癖なども知ることができ、今まで読んだことのあるホームズの話が今さらながら少し鮮明になったような気がしました。
ホームズ・シリーズの最初に読むべき本だったのでした。

【次回】
読書会発足20周年を記念して軽井沢を1泊2日で訪れます。
日時:11月1日(水)〜11月2日(木)
読む本:「イギリス魔界紀行 妖精と魔女の故郷へ」荒俣宏著 角川文庫
2017年 5月18日(木) 参加者9名
読んだ本:
「漱石の師 マードック先生」
平川祐弘著 講談社学術文庫
ジェームズ・マードック(James Murdoch、1856年9月27日 - 1921年10月30日)は、日本とオーストラリアで教師として働いたスコットランドの学者ジャーナリストである。東京帝国大学などで教え、大著『日本歴史』を著した。マードックが教えた人物には夏目漱石がいる。

【次回】
日時:7月13日(木) 14時半〜16時半
読む本:「ドリアングレーの肖像」 オスカーワイルド著 新潮文庫、光文社(古典新訳)など。
参加ご希望の方は、事務局までお知らせください。
2017年 4月17日(月) 参加者9名
読んだ本:
「聖者と学僧の島 文明の灯を守ったアイルランド」
トマス・カヒル著 森夏樹訳
・序文
「ヨーロッパの端に位置する小さな島アイルランド(石器時代の文化を持つ第三世界の国)が栄光を一身に浴びた時代があった。
それは、ローマ帝国が崩壊し、ヨーロッパじゅうを横切って粗野で汚らしいゲルマン民族がローマへ下り、工芸品を掠奪し、書物を焼いたその時、すでに字の読み書きを学んでいたアイルランド人は西洋のすべての文字を書き写す仕事をした。写学生はギリシャ、ローマ文化とユダヤ・キリスト教文化を新たに住み着いたゲルマン諸族に伝えた。アイルランドの修道士は大陸中を放浪しながらヨーロッパ文明の再建につくした。子の修道士の大陸での電動がなければ、そのあとに来た世界は書物のない世界になっていただろう。そして我々の世界も決して到来することがなかっただろう。」
・この世の終末
1100年の命脈を保ったローマ帝国はなぜ崩壊したのか。
アウグスティヌス(北アフリカの司教で初期のキリスト教会の指導者354-430)は帝国の崩壊はキリスト教ではなく異教信仰である。
マキュアヴェリ(イタリアフィレンツェの政治家・外交官1469-1527)は、崩壊は異民族によるものだ。
エドワード・ギボン(イギリスの歴史家1737-94)はキリスト教の導入がローマ帝国の衰退と崩壊に影響を与えた。
ひとつはローマ帝国は自らの脆弱さ(社会的なもの・精神的なもの)のために崩壊した。
もうひとつは、ローマ帝国は外部の圧力(異民族=ゲルマン民族)のゆえに亡んだ。
ゲルマン人を移民として動かし、ローマ帝国の領土へ侵入させたものは農業である。
帝国の北方に位置したい民族の社会は狩猟しながら遊動して暮らす生活様式から農業を主体とした定住生活に切り替わって、それにより人口は爆発を引き起こした。そのための土地獲得を駆り立て、ローマ帝国がそれをつくりあげた同じ力により滅ぼされた。
・失われたもの
ローマ人は生き延びたが、家柄・財産・生活様式・学問(古典期の文明を形作っていた文学)そのほかすべてのものを失った。
・移り行く闇の世界
神聖ではなかったアイルランド、
ケルト民族はフランスに居住したガリア人、 紀元前3世紀にギリシャ世界に侵入しトルコに移住したガラテア人、 紀元前400年にブリテン島にわたってブリトン人、 紀元前350年頃アイルランドに到着したイベリア系ケルト人がアイルランド人。 アイルランドが800年の間、まったく時間の外に存在したということ。そこには文字を持たず、貴族性をとり、半遊牧生活を営む戦士たちの鉄器文化の社会だった。そして富の源は畜産と奴隷制であった。 また、ローマ帝国崩壊の世紀も時間の止まった島でローマ文化ではなくブリトン人の大陸に住むケルト人たちの文化だった。
・遠方からの福音
最初の伝道者
パトリキウス(アイルランドの守護聖人389頃〜461頃)は羊飼いの奴隷として、獣のように(六年間)育てられた。この環境の中で祈りをはじめた。祈りを日々何百回と続けて奴隷から抜け出したころにはパトリキウスは神聖な人物になっていた。そして次々に困難を乗り越えて生まれ故郷ブリタニヤにたどり着いた。パトリックは羊の番をしている間、ラテン語の勉強ができなかったのでアイルランド語が母語となった。
そしてパトリックは家族の元を離れ、ガリア地方のレラン修道院に行き、そこで司祭となり次いで司教の任命を受けて、伝道に従事する最初の司教となった。
キリスト教の最初の伝道者はパウロであるがパウロからパトリックに至る四世紀の間全く伝道者が現れなかった。
偉大な伝道者パウロもギリシャ・ローマの圏外へはけっして出ていこうとしなかった。
パトリックはローマ法の届かない場所に住む異民族へ向かって旅をした。
彼は各地に修道院・女子修道院を立て、生涯にわたって変わらない忠誠心・勇気・寛容の精神などの道徳がごく普通のものにでも到達することが可
能だということを説いた。 パトリックの生存中に、アイルランドの奴隷取引は中止された。さらに人殺しや部族間の戦争も下火となった。
イギリスのキリスト教徒はアイルランドのキリスト教徒を一人前のキリスト教徒として認めず人間としても認めていなかった。理由は彼らがローマ市民でないからだ。
アウグスティヌスは現在の理論をつくりあげた。水の儀式である先例はキリスト教徒の生活の根源をなすものであると。
パトリックは先例だけが神の共に新しい生活に入る効果的手段ではなく、新しい生活に入る機縁は至る所にある。神が創造したものすべてが善である。
・堅固な光の世界
聖なるアイルランド
アイルランド人がどんな意識をもって生きてきたか。
偶像崇拝の力に対抗して。
魔女や鍛冶屋や妖術使いなどの呪いに対抗して。
なぜなら、神の楽しみと人間の楽しみは再び統一され、大地は神の光によって射抜かれ、そして成敗は、ドルイド的なキリスト教徒の鍛冶屋の、神に対する感謝となったわけであれ。このようにしてアイルランド人はキリスト教徒となった。
・見つけ出されたもの
アイルランド人はどのようにして文明を救ったか。
アイルランド人についてエドマンド・キャピオン(1540-81)は、
「アイルランドの人々は宗教心があり、素直で好色、短気だが、計り知れないほどの苦痛を耐え忍ぶことができる。名誉心が強く、魔法を使う者がたくさんいる。すぐれた騎手。戦争をよろこぶ。たいへん慈善家。人をもてなす心が強い。彼らはウイットに富み、学ぶことが好きだ。熱中するとどんなものでも習得する。たえず働いている。冒険心にあふれている。頑固。親切な心をもち、不満があっても黙している。」
パトリックのキリスト教伝道は、ローマ化されてないキリスト教であるが、ローマの教養(読み書きができること)なしにそれは、長く生き延びていくことはできない。したがってアイルランドにおける最初のキリスト教徒たちは、必然的に読み書きのできる人になった。
宗教史上、アイルランドでは殉教者がいなかった。この受難の欠如がアイルランド人たちを悩ませた。そこでアイルランド人たちは新しい殉教のかたちとして大陸で集められた書物から学び五世紀から六世紀初めにかけ解決策として「緑の殉教」として森のなかや、山頂、孤島に住んで書物を学び、神に親しく語り合うことであった。そして修道院が新しい人口の集中の拠点となり、芸術、学問の中心を形成するようになった。
アイルランド人は読み書きの能力を身に着けることを宗教上の重要な行為とみなした。
アイルランド人は文学を読み書きする能力を自分たちの方法で身につけ、楽しみながらするというやり方で、そしてラテン語、ギリシャ語をマスターし、ヘブライ語を覚え、その上アイルランド語の文法を工夫し、自国の口承文学のすべてを文章にした。
アイルランドの修道院の伝統はアイルランドをこえて広がり、おおくの外国の学生を受け入れその学生たちが自分の国へアイルランドの学問を持ち帰った。そして今度はアイルランドの修道士たちが蛮族の住むヨーロッパへ入植した。パトリック以後コルムキルやコルンパーヌスは大陸の各所に修道院を立てた。そうして彼らはヨーロッパ本土に古典の学問を再び導入することに従事した。
アイルランド人がいなければラテン文学はその大半は消滅してしまっていただろう。さらに文字を読むことすらできなくなっていたヨーロッパは、口承文学を文字にしたアイルランドの手本なしでは偉大な国民文学を生み出すことはできなかっただろう。
アイルランド人はたくさんの書物をヨーロッパにもたらし、行き先々で学問の愛と製本の技術を教え広めた。
そして疲労しきっていたヨーロッパ文化に新しい息吹を吹き込んだ。
・世界の終わり
希望はあるのか。
アイルランドの書写技術のいきを集めたものが 「ケルズの書」
「リンディスファーンの福音書」
である。

アイルランドにリーダーとしての役割を失わせてしまったもの。
八世紀の終わり頃からヴァイキングは貴重な品に満ち溢れた平和は修道院を攻撃はじめた。
十六世紀 エリザベス女王時代にイギリスの最初の植民地にされた。
十八世紀 イギリスの刑罰法がカソリック教徒の市民権を奪った。
十九世紀の大飢饉で100万近い人が死んだ。さらに150万人が北アメリカやオーストラリアへ移住。1914年までに400万人が移住した。蹂躙されつくした人々に自尊心を取り戻させたのは20世紀になって起こったアイルランドの文化と政治の運動だった。

歴史はいつも、人間はローマ人とカトリック教徒の2種類にわけるかもしれない。ローマ人は豊かで、力にあふれ、物事を彼らのやり方で行い、いつもより多くのものを獲得する。というのも彼らは本能的に、物が十分に行き渡ることなど決してないと信じているからだ。一方「普遍的な人たち」はその名前が示す通りの普遍主義者で、本能的に、人類は一つの家族ですべての人は等しく神の子供であり、神はことごとくをあたえてくれると信じている。
文末に「我々自身が救われるとするならばそれはローマ人によってではない。聖人によって救われるのだろう」と。
(担当:滝川一子)
【次回】
5月18日(木)14時半〜16時半
読む本:「漱石の師 マードック先生」 講談社学術文庫 平川祐弘著
JSS会員どなたでも参加歓迎です。詳細は事務局にお問い合わせください。
2017年 3月23日(木) 参加者9名
読んだ本:
「バルトン先生 明治に本を駆ける―近代化に貢献したスコットランド人の物語」
稲場紀久雄著 平凡社
明治19年はコレラが大流行し、患者15万人 死者11万人となり、東京は死の都市となった。
明治10年ころまでは、来日した外国人が皆驚くような清潔な都市であった。明治維新後文明開化が進む一方、各藩で雇われていた使用人が無職となり、多くが生活困窮者となった。又停滞した商工業から追い出された貧困者が街にあふれ、生活条件が悪化し、10年の間に5度のコレラの流行があり、20万の生命が失われた。上下水道の整備とその技術者養成が政府の早急の課題となった。
政府は英駐公使の人選を経て、人格、識見が優れているウイリー・バートンを帝国工科大学初代衛生工学教授として招聘した。ウイリー・バートンは船舶機械設計、港湾橋梁工学を学び、当時の先端技術の写真についても英国でも嘱望された青年であった。
バートンを育てた家庭は、父は有能な弁護士であり、文筆家としてスコットランド随一の知の巨人であった。母は女性に門戸を閉ざしていたエジンバラ大学の聴講生となり、ナイチンゲールの呼びかけに応じクリミア戦争の看護団に加わるほどの情熱家であった。子供のころから、歴史、文学、数学化学等枠にとらわれないレベルの高い知識を身につけられる環境に育った。
バートンは明治20年5月、31歳の若い工科大学教授として来日、3年の契約であったが、実際はその後3回更新され、日本人女性と結婚、さらに台湾の衛生改善に携わり、台湾の風土病に侵され、スコットランドに一時帰国を前に、日本で帰らぬ人となった人である。

5月26日横浜港に着いたバートン(日本人はバルトンと呼んだ)はコレラの流行で日本は打ちひしがれていると想像していたのに、以外にも若々しいエネルギーに満ちた国に思え日本で仕事をすることに希望を持った。
来日数日後、日本で活躍する外国人の家庭を訪問し、外国人の妻となっている日本人の奥様たちの知的で自己抑制があり、向上心に溢れた、生き生きと美しい姿に、強い印象をうけた。その人たちが強い連帯感で結ばれ、助け合っていた。
同年7月には後藤新平らと北海道、東北を視察し、9月衛生工学初代教授として開講以来技術者の教育と東京府の下水道計画立案に精励した。
バルトンは日本の写真技術向上、乾板の国産化事業にも貢献した。
明治21年7月の磐梯山大噴火の時は火口近くまで接近し、質の良い乾板で臨場感あふれる撮影をしている。
バルトンは水道の給水塔の建設に適した土地を探していたが、日本人の高いところに登りたいという好奇心をかなえてやりたいと浅草に十二階の凌雲閣を設計、施主が持ち込む難問を次々と解決し、明治23年11月に竣工式を迎える。
明治24年濃尾大地震が勃発、バルトンは名古屋に急行し記録写真を撮影。この時も日本人が持っている励まし合う知恵と逞しさに感銘を受けた。
明治27年バルトンと満津の結婚式がイギリス国法の手続きで領事館で行われた。
明治28年バルトンに台湾の衛生工事を任せたいとの誘いを受け、弟子の浜野弥四郎と台湾に行き、おびただしいハエやカ、不潔なすさまじい汚染に衝撃を受けながら、上下水道整備のための水源探索を行った。積年の過労と風土病がバルトンを襲い、休暇で日本に帰国して3カ月後東京で急逝。明治32年バルトン43歳であった。

著者は40年にわたってバートンの先祖、両親、兄弟、いとこ、日本に残した遺族、親しく付き合っていた友人等根気よく調べ、バートンゆかりの家族との感動的な出会いの場を作った。
この本は40年の調査の感動的な報告書である。

この本を読んで明治時代について知識の無い私にとって、明治時代がとても身近に感じられました。
何の不思議もなく蛇口を押せばきれいな水が出て来る日本に住んで、先人の苦労を分かち合わなければと思いました。今回の読書会にバートンの父、祖父2人の回想録を翻訳された稲永丈夫さんのご出席を頂き、読書会が一段と盛り上がりました。ありがとうございました。
(担当:近岡庸子)
【次回】
JSS読書会は4月17日(月)午後14時半より16時半まで。
読む本:「聖者と学僧の島 文明の灯を守ったアイルランド」 トマス・カヒル著 森夏樹訳
会場:日本スコットランド協会事務局
JSS会員どなたでも参加歓迎です。詳細は事務局にお問い合わせください。
2017年 2月20日(月) 参加者9名
読んだ本:
「善良な町長の物語」
アンドリュー・ニコル著 白水社
この小説は著者のデビュー作で、みごとスコットランド・ファーストブック賞を受賞したという。
小説の時代設定は明らかにされていないが、現代に近い。また舞台であるトッドという町も、実在するのかどうかは明らかではない。バルト海沿岸に位置する小さな町であるとされ、トラムが走っている場面が多く出てくる。著者はスコットランドのダンデイー出身で、北海に面している港湾都市だが、もしかしたらその都市の雰囲気が反映されているかも知れない。

物語のストーリーは、町長であるティボ・クロビッチとその秘書アガーテとの恋愛小説である。
二人共中年で、ティボは町長になり20年目を迎えているが、独身である。アガーテは既婚者であるが、自分たちの赤ん坊を亡くしてから、夫ストパックとの夫婦間の関係が全く冷え切ってしまう。そんな二人がお互いに関心を持ち合い、ランチを共にしたり、デートをするようになるが、その進展は少年少女のようにもどかしい。アガーテはいつからか、暖かいダマルティアの海岸に建てたいと願っている家の資料ノートをいつも持ち歩いている。

「アガーテはバックを開けて一冊のノートを取り出した。全部のページに分厚い栞を挟んでいるみたいにぶわぶわと膨らみ、ぱんぱんになっている。…ダマルティアの海岸に建てるわたしの家。いつも持ち歩いているのよ…アガーテはぱらぱらとページをめくり、雑誌から切り抜いて貼り貯めた写真の数々をティボに見せた」(p215)

夫との冷え切った関係から早く脱出し、子供はいなくても家庭的で、女性的でロマンティックな暖かい夫婦像をティボに投影する。一方、ティボも既婚者を相手に自己葛藤に悩まされる。美術館で買った絵葉書(ベラスケスの『鏡のヴィーナス』)に自分の思いを打ち明けアガーテに送る。
「この絵以上に美しく、大切で、愛しい存在です。どんな女神よりも崇拝されるべきです。確かにわたしはあなたの友達です!」(p280)
二人とも幾度なく呟いていた「きっとそろそろ……」(p223)
しかし運命はいたずらしてしまい、アガーテは夫の従兄弟で画家のヘクターのもとに行ってしまう。アガーテはそれでも愛情に満ちた幸せな家庭を築くことができなかった。

3年が経ち、再び町の守護神ヴァルプルニアが愛の助け手として働いたのであろうか、不思議なことが次々と起こり物語は急展していく。風が町に激しく吹き、アガーテの身辺に異変が起きる。同棲していたヘクターが死に、アガーテは何と徐々に犬(ダルメシアン)に変身してしまう。ヘクター殺害の疑いをかけられたアガーテをティボは愛らしく家に匿うが、結局弁護士イェコムの粋な計らいもあって、二人は町を離れ、対岸の島に向かおうとする。その舟が夜、座礁するのだが、幻想的なサーカス団によって助けられたりもする。かつて、アガーテやティボも町で見たことのあるサーカス団だ。
お互いに愛を告白する二人は理想的な暖かい島に渡り幸せに暮らすようになったであろうと、予感させる結末で小説は終わる。アガーテは人間の姿に回復し、可愛らしい子供にも恵まれて……。
犬に変身したアガーテの姿に驚き、呪いを解いてくれと言わんばかりに魔術師の家系であるセザールの元に駆け込んだティボが言われる。

「そうだとしても、元に戻す方法はないでしょうーー愛だけです。死をも恐れぬ愛があれば、たいていのことは治せます」(p363)

このロマンス小説のテーマは愛であるが、ストーリーがいかにもイギリス的でファンタステックな装置がとてもうまく使われている。
著者はジャーナリストとして活躍しながら小説などを創作していると言うが、スコットランド教会の長老でもある。
(担当:井垣勝男)
【次回】
JSS読書会は3月27日(月)午後14時半より16時半まで。
読む本:「バルトン先生 明治日本を駆ける!」 稲葉紀久雄著 平凡社
会場:日本スコットランド協会事務局
参加ご希望など、お問い合わせは事務局までお願いいたします。
2017年 1月23日(月) 参加者10名
読んだ本:
「ケルト美術の招待」
鶴岡真弓著 ちくま新書
書き言葉を持たず、自分たちの手による歴史記述を残さなかった「ケルト文化」を訪ねた、壮大な歴史記述だと思います。ケルト美術は、ハルシュタット辺りを中心に始まり、現在のプラハ、ウィーン、ブダペストさらに南へ、クロアチア辺りまで届いたと思われます。

ハルシュタットの文化遺跡の中から出土した、ワインを混合するためのバケツ型のシュトラは、代表的な作品であるし、また人間像の装飾も素晴らしいものが出土しています。ヨーロッパ大陸の北方に繁栄したケルト文化は紀元前一世紀頃急速に衰退したようですが、「ゲルマン人」がアルプス以北を完全に占領する前に、ケルト部族はブリタニア、アイルランド、辺りに落ち延びており、金土品の鉄工職人がいたと思われ、ケルト美術のトレードマークとされる「首飾り」トルクが作られました。

聖パトリックの布教によりキリスト教化されたアイルランドは、ケルトの修道院繁栄を確立し学問と芸術の中心として、西北ヨーロッパの修道院文化をリードしました。修道院の周りや町中には様々な「ケルト十字架」があり、教義のシンボルとして信者を十字架のもとに集め、説教に使用されたと思われます。

今から200年ほど前に、暗い土中から出土した黄金のブローチ、聖杯、写本の外装の金具等、修道院に保護されていた文化物が人々の目の前に出てきて、これが「オシアン」ブームを引き起こしました。「オシアン」の古歌は、スコットランドハイランド地方のゲール語の語り手と古写本から取材されたと言われ、この哀歌はゲーテをはじめ大陸の前ロマン主義の詩人たちに衝撃を与えたし、ゲーテは「若きウェルテルの悩み」の最後のシーンでえんえんとこの詩を詠ませています。
又、管弦楽「フィンガルの洞窟」は作曲家メンデルスゾーンが伝説の洞窟まで旅をして苦労して生まれた曲であることが解り、今更ながらこの曲に対する思いが変わりました。
(担当:弘中順江)
【次回】
JSS読書会は2月20日(月)午後14時半より16時半まで。
読む本:「善良な町長の物語」 アンドリュー・ニコル著 白水社
会場:日本スコットランド協会事務局
参加ご希望など、お問い合わせは事務局までお願いいたします。

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