◆JSSカルチャー講座 2016年◆
第6回 2016年 10月29日(土) 18:00〜19:00 参加者34名
「なぜ日本ウイスキーはスコッチタイプになったのか? 〜日本とスコットランドの深い関係〜」
三鍋さんの講座風景(うすけぼー店内)
1. 世界5大ウイスキーと日本ウイスキー
アイリッシュ、スコッチ、アメリカン(バーボン)、カナディアン、ジャパニーズは、質、量、伝統などから,特に世界5大ウイスキーと言われている。
日本ウイスキーは、スコッチとほぼ同じ製造方法でつくられている。製造方法をスコッチに学んだからだ。NHKの朝ドラでおなじみの「マッサン」こと竹鶴政孝が1918年にスコットランドに留学してもたらされ、日本で定着したウイスキーづくりは、今では品質世界一に選ばれる銘柄を数多く輩出している。
では、竹鶴はなぜスコットランドに行ってスコッチを学んだのだろう?黒船のペリー提督以来関係の深いアメリカのバーボンの製法を学ばなかったのはなぜだろう?
2. 幕末日本とスコットランド
1863年長州の若き藩士5名が横浜から密出国する。彼らを導いたのはジャーデン・マセソン商会横浜支店であった。この会社は、二人のスコットランド人、ウィリアム・ジャーデン(ダンフリーズ出身・エディンバラ大卒)とジェイムズ・マセソン(サザーランド出身・エディンバラ大卒)によって1832年に創業された。長州の5人を見送った支店長ウィリアム・ケズィックは、ウィリアム・ジャーデンの姉の孫であった。
ロンドンでこの5人を迎えたのは、ジェイムズ・マセソンの甥、ヒュー・マセソンであり、その尽力で5人はユニバーシティ・カレッジ・ロンドンへ入学、そこでアレキサンダー・ウィリアム・ウィリアムソン教授の親身の指導を受ける。実はこのウィリアムソン教授もスコットランド系であった。そのような縁もあり、産業革命を牽引したスコットランドを知った長州の5名は、1865年にロンドンに来た薩摩藩留学生15名と共に帰国後、日本の近代化、工業化に大きな足跡を残す。伊藤博文は「内閣の父」、井上馨は「外交の父」、山尾庸三「工学の父」、井上勝は 「鉄道の父」、遠藤謹助は「造幣の父」と呼ばれるようになった。
3. ビクトリア朝とスコッチウイスキー
留学生が見たビクトリア朝大英帝国は産業革命の隆盛期であり、世界最強の国力を誇った。その大英帝国で広がったのが、産業革命の中心地スコットランドの地酒スコッチウイスキーである。1826年に発明され、1830年に改良機が出た連続式蒸溜機によってつくられる口当たりの良いグレーンウイスキーと個性豊かなモルトウイスキーを混和したブレンデッドウイスキーは、ロンドン市場だけでなく、帝国の植民地にも広がって行く。ビクトリア女王自らもスコッチウイスキーを愛した。
折から猛威をふるったフィロキセラ(ブドウ根アブラムシ)によってヨーロッパのワイン、ブランデーが壊滅的な被害を受けたこともスコッチの普及を助けた。
4. 日本と英国、日本ウイスキーの誕生
伊藤博文、山尾庸三らによって、日本のインフラ整備・工業化の司令塔として設立された工部省、その付属機関工部大学校には多くのスコットランド出身者が雇われた。産業革命の中核、工業の首都グラスゴーのグラスゴー大学は英語圏で初めて工学部が創設されたが、その工学部系の教師達が中核となった高等教育機関が工部大学校であり、多くの人材を新生日本に供給した。 こうして奇跡とも言われた日本の工業化は進んで行く。そして日英同盟締結。豊かさと共に日本人はウイスキーを隆盛の印として認識し始める。そのウイスキーとは、大英帝国の酒、スコッチ以外には考えられなかった。こうして日本はスコッチウイスキーを国産ウイスキーのモデルに選んだのである。
1923年山崎蒸溜所建設開始、そして翌年、日本ウイスキーの最初の滴が流れ落ちる。それから90年余り、現在稼動中のウイスキー蒸溜所は20ヶ所に増えた。
ウイスキーを見かけた時、近代日本とスコットランドの深い関係に思いを巡らせていただければ、幸甚である。         
(三鍋昌春)
この日テイスティングしたウイスキー
当日のJSSカルチャー講座には、34人の出席があり、上記に報告された濃いウイスキー講座に聞き入りました。
「山崎」「余市」「マルス(本坊酒造)」という日本を代表するシングル・モルト3種の試飲もあり、皆さまはおいしさの違いを味わいながら、頬を染めていました。そして2週間後のサントリー白州蒸溜所見学に続いたのです。
(講座担当)

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