◆スコットランドを語る会 活動報告 2015年◆
【第76回】 2015年 11月14日(土) 14:00〜16:00 参加者25名
発表者:サイモン・W・ホール博士
テーマ:スコットランド文化の多様性を探る 〜オークニー諸島の文化的・文学的アイデンティティーを中心に〜
通訳:米山優子さん(静岡県立大学)
講演するホール博士
ホール博士はオークニー諸島のカークウォール・グラマースクール英語主任教諭で、2014年4月より2年間、スコットランドの教育庁にあたるエデュケーション・スコットランドのスコッツ語コーディネータとして出向しています。1974年、カークウォールに生まれ、グラスゴー大学でPh.Dを取得しました。この論文をもとにThe History of Orkney Literature (John Donald, 2010) が出され、ソルタイア協会文学賞のスコットランドで出版された優れた処女作品に与えられる部門で、共同受賞者となりました。その邦訳『オークニー文学史』(川畑彰 他訳、あるば書房、2014)の出版後、できたら日本で話をしたいという博士の希望があり、訳者の1人米山優子さんのご尽力により、勤務校の静岡県立大学から博士の在日滞在費の助成金が出ることになって、博士の来日講演が実現することになりました。
博士はスライドや写真などを使われ、平易に話されました。途中スコッツ語の歴史のアニメを流され、場を和ませてくれました。米山さんの通訳も聞きやすくよかったでした。質疑応答も活発に行われました。17時過ぎから茗荷谷駅前の居酒屋で行われた懇親会に、博士ご夫妻には最後までお付き合いをいただきました。以下は講演の概要です。

オークニー諸島はスコットランド本土北の沖合に浮かぶ、70ほどの島々から成り立つ群島です。大体が低地で、農業、考古学、再生エネルギー開発などがよく知られています。北緯ほぼ59度という高緯度にもかかわらず、メキシコ湾流の影響で気候は温和です。しかし、特に冬は雨が多く、風が強いです。
スコットランドは中世に1つの国として現れました。そのとき、ウィリアム・ウォレス、ロバート・ザ・ブルースのようなスコットランド人が、イングランドからスコットランドの独立を勝ち取るために戦いました。中世期、オークニーや隣のシェトランドの北方諸島は北欧の一部でしたが、15世紀の末、北欧の王女がスコットランド王ジェームズ3世と結婚するとき、シェトランド諸島とともにその持参金の抵当となり、スコットランドの支配下に100年余、そして1707年イグランド・ウェールズとの合同で英国の支配下に置かれるようになりました。20世紀、スコットランドに分権政治の要望が強くなり、1997年の住民投票により、1999年約290年ぶりに新しいスコットランド議会が開かれました。この北欧、スコットランド、英国の3つの異なった文化的アイデンティティーとの相互関係を念頭に置いて、言語、文学、政治について話されました。

スコットランドには3つの主な言語があります。英語、スコットランド・ゲール語、スコッツ語です。英語は最も広く使われている言語で、スコットランドのほとんどすべての人が話し、日々これを使っています。スコットランド・ゲール語は大変古くからある言語で、大体ハイランドや西方諸島で話されています。話す人は少なく、約6万人の人(スコットランド人口の約1.1%)が話しています。スコットランド政府はゲール語を推進するために「ゲール語法」を通過させ、ゲール語教育はアバディーン、グラスゴーといったスコットランドのいくつかの都市の中産階級の家庭の間で盛んになってきています。スコッツ語は英語と同じ古英語という祖語から来ていますが、中世期、英語とはかなり異なってきており、中世スコットランドの国および議会の言語でした。その頃の代表的な詩人として、ウィリアム・ダンバーやロバート・ヘンリソンがいます。近世の文人としてサー・ウォルター・スコット、ロバート・バーンズがいます。スコッツ語で書いたバーンズ以来のスコットランド最大の詩人は、ヒュー・マクダーミッドです。

スコッツ語はゲール語のように、数百年にわたって偏見や迫害を受けてきました。若者たちが現代世界でこの言語のために後れを取るのではないかという誤った考えで、スコットランドの学校はスコッツ語とゲール語を排除しようとしたこともあります。このスコッツ語に対する態度を変え、スコッツ語を使う多くの若者を助けようと、スコットランド政府はスコッツ語コーディネータを任命して、教材を開発し、スコッツ語教師の養成をするようにしました。これがエデュケーション・スコットランドで博士が行っている仕事です。

オークニーで話されることばは、英語とスコッツ語です。スコッツ語と言っても本土のスコッツ語と少し違っています。北欧・スコットランド・英国の3つの文化を持つオークニー文化は、その地名によく反映されています。時代が古い名はカークウォールのように古ノルド語で「入江沿いの教会の意」、カークウォールの通りの多くはスコッツ語の名前で、例えばWatergateは「水路」の意です。それより新しい通りの名はVictoria StreetやWellington Streetのように、英国の女王、将軍を記念するものです。現在オークニーの人々は通常、自分たちをまずオークニー人と考え、ついでスコットランド人または英国人、あるいは両方であると考えます。オークニーの人々は多少保守的傾向があるのでしょうか。一貫して自由民主党を支持しています。2015年9月のスコットランド独立を問う住民投票では、独立賛成の最も低い地区の1つで、独立支持平均45%に対してオークニーは34%にすぎません。オークニーはスコットランドに対してアンビバレントな感情を持つように思えます。オークニーの人々の多数は当分の間英国内に残ることを選ぶように思えます。

このスコットランドに対するアンビバレントな感情はオークニー文学の一部にも見られます。20世紀オークニーの最も知られた2人の詩人エドウィン・ミュアととジョージ・マッカイ・ブラウンは、オークニー・スコッツ語を用いるのに反対して、ほとんど英語だけで仕事をしました。エドウィン・ミュアはかつて、自分はスコットランド人ではなく、むしろ「よき北欧人」であると述べました。ジョージ・マッカイ・ブラウンは1960年代、エディンバラで活躍していたスコットランドの詩人の1人でありましたけれど、ほとんどオークニーについてのみ書き、故郷の島からめったに出ることはありませんでした。

ジュリアナ・ドナルドソンの児童向けの物語『グラファロ』(アクセル・シェフラー絵、1999)のスコッツ語版(2012)をオークニー向けにオークニ・スコッツ語に訳した『オークニー・グラファロ』を、博士は今年出しました。最後にその初めの部分を朗読して講演を終えました。因みに日本語版は『もりで いちばん つよいのは?』という表題で、2001年に出ています。

【追記】
ホール博士のブログへのリンクです。
オークニー・スコッツ語で書かれていて難解ですが、英語で書かれている文もあります。
サイモン・W・ホール博士「brisknortherly」
(担当:山田修)
(撮影:中尾正史)
JSS会員とともに
ホール博士夫妻
【第75回】 2015年 9月11日(金) 18:00〜 参加者30名
第75回「スコットランドを語る会」は9月11日のカルチャー講座との共同企画として開催されました。
活動報告は下記リンク先の記事をご参照下さい。

JSSカルチャー講座「日本とスコットランド架け橋、渡邊嘉一とフォース・ブリッジ」
【第74回】 2015年 7月30日(木) 18:00〜 参加者11名
発表者:三村美智子さん
テーマ:「蘇格蘭通信」「JSS便り」から見たスコットランド その2

三村さんが前回に続いて講師を引き受けて下さいました。彼女は出版社に勤めておられたのですが、JSS創立時代に、機関誌の編集のためにJSSにスカウトをされたとのことです。
機関誌「蘇格蘭通信」および「スコットランド便り」の編集における様々な取材の苦労話と、どのような方々がスコットランド協会に協力して下さったかの昔話、それに初めて見たスコットランドの魅力について、当時の機関誌を見せながら、お話して下さいました。 聴衆は初めて聞くような話ばかりでしたので、皆さん興味をもって耳を傾けていました。
(担当:佐藤猛郎)
【第73回】 2015年 5月29日(金) 18:00〜 参加者14名
発表者:三村美智子さん
テーマ:「蘇格蘭通信」「JSS便り」から見たスコットランド

発表者:菊地恵子さん
テーマ:「ロッホ・ローモンド、その他スコットランドの曲5曲」

三村さんは1985年に日本スコットランド協会が発足した後、直ぐに協会の機関誌の編集を担当され、「蘇格蘭通信」の第1号は他所の出版社のお世話になったけれども、第2号からは、三村さんが中心になって、企画、取材、原稿依頼、編集、などを担当されたとのことで、そのご苦労話もありましたが、協会発足当時の会員や、スコットランド研究家の名前が出る度に、皆さんからは驚きの声や、歓声が上がるといった具合で、とても会は盛り上がりました。準備された材料の半分ぐらいしかお話しいただけなかったので、三村さんにはその続きを次回にお話し願うということになりました。

菊地さんは重いアイリッシュ・ハープをわざわざ持って来られて、生演奏を聴かせていただきましたが、その音色の美しさに、私達は今更のようにうっとりとさせられた次第です。
(担当:佐藤猛郎)
【第72回】 2015年 3月26日(木) 18:00〜 参加者16名
発表者:三鍋 昌春さん
テーマ:「スコッチ、ジャパニーズ、ワイン、鳥井信冶カ」

三鍋さんは三度目の登場で、スクリーンの映像を使って、判りやすく説明をして下さいました。
まずスコッチ・ウィスキーもジャパニーズ・ウィスキーも、そのまろやかな香りがワインと同じような風味を持っているのは、ビールを蒸留する時に、ホップを使わない「エール」種のビールを使っているためだというお話でした。
次にサントリー社の成功を支えたのは、創業者鳥井信冶カ氏のどんなことでも試してみる進取の気性によるところが大きく、ウィスキーやワインの生産を維持するために、子供向けの飲料や、安い酒類の銘柄などをどんどん試し、儲からなければ、すぐにそれを中止して、他の飲み物を試してみるという具合で、最近栄養剤まで売り出しているサントリーの社風の原点となっていたとのことです。これはウィスキーにだけ集中していた「マッサン」の生き方と、大分違うようです。
(担当:佐藤猛郎)
【第71回】 2015年 1月22日(木) 18:00〜 参加者20名
発表者:鈴木 千歳さん
テーマ:「マッサンの妻リタさんの直筆英文手紙」 ―友人の藏重(旧姓竹鶴)康子さんに届いた手紙―

鈴木千歳さんは、協会では読書会のメンバーですが、インドに長く滞在され、インドの作家の作品をいくつか翻訳されていて、日本とインドとの文化交流に大いに力を発揮された方です。
2013年には天皇ご夫妻のインド訪問に際しては、インドの作家を皇后陛下に紹介したり、最近の日印交流の様子などを彼女に説明したりされたとのことです。

彼女はたまたま広島県宇部のご出身で、竹原の竹鶴家からもそれ程遠くないところに実家があったとのことです。
また大学時代の同級生に「マッサン」の生家の本家筋に当たる竹鶴家の旧姓竹鶴康子さんと親しい関係にあったそうです。その関係で、康子さんがマッサンの妻、リタさんと英語の文通をしていたことを知り、リタさんの手紙四通のコピーを送って貰ったとのことですが、今回の発表では、その珍しい手紙をスクリーンで映写し、それに鈴木さんの流麗な日本語訳を付けてくれたのです。(リタさんの手紙を公開することは、康子さんにお許しを得ているとのことです)
また現在の竹鶴酒造の写真なども見せて頂き、観客は皆大変楽しい夕べを過ごすことが出来ました。

私達の間では、「マッサン」についての話題で、またひとしお盛り上がったようでした。スコットランド協会の会員だけでなく、鈴木さんのお友達も数名参加されたので、出席者の自己紹介でも盛り上がりました。
(担当:佐藤猛郎)

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