◆スコットランドを語る会 活動報告 2012年◆
【第58回】 2012年 11月25日(木) 18:00〜 参加者15名
発表者:佐藤 猛郎さん
テーマ:「ロビン・スパークについて」

ロビン・スパークはスコットランド出身の著名な女流作家ミュリエル・スパークの息子です。19才で結婚したミュリエルは、教員をしていた夫、シドニー・スパークの赴任地ローデシア(現在のジンバブエ)で、結婚の翌年1937年にロビンを生みました。

夫が精神病で、暴力を振るうのに耐えかねて、母のミュリエルはロビンが6才の時に夫と息子を残して英国に帰国してしまい、その後は作家の人生を歩むことになります。母親は人気作家となるのですが、スコットランドには帰らず、ロンドン、ニューヨーク、ローマと転々とし、最後にはイタリア、トスカーナ地方に引っ込み、意気投合した女性画家ペネロペ・ジャーディンと共同生活を送り、意欲的な作家活動を続けます。

母に捨てられたロビンは母親が去った2年後にスコットランドに帰り、祖父母に育てられて成人します。しかし母親との確執は決定的で、彼がユダヤ人の誇りを持ち続けようとするのに、母親がカトリック教に改宗したことにひどく反発します。彼は40代になって美術大学に入って、画家をめざし、評判の良かった作品を母親に献呈したのに、彼女はそれを散々に酷評するのです。彼女が亡くなる前の20年くらいは、お互いに全く音信不通の状態だったと言います。彼女は2006年にトスカーナで亡くなりますが、その2年前に遺言書を裁判所に提出し、イタリアにある彼女の全財産を同居者のペネロペ・ジャーディンに贈ると決めたのに、ロビンのことは一言も触れていなかったとのことです。しかしイタリアの法律では、故人の遺産の半分は、息子、または娘が相続できるので、その手続きをとるかどうかと、マスコミから尋ねられたとき、ロビンは現在の生活で満足しているから、母の財産を相続するつもりはないと答えたとのことです。

彼は我々の知人、エディンバラ在住の星野幸三さんの美術愛好グループの一員でもあるので、星野さんからも話をいろいろ聞きました。人並み以上に優れた才能や資質を持った親子同士の関係は難しいものだと思いました。
【第57回】 2012年 9月18日(火) 18:00〜 参加者7名
発表者:鳰原 吉也さん テーマ:「ジャガイモ男爵の愛」

ジャガイモ男爵の名で親しまれている川田竜吉(1856〜1951)は土佐藩の下級武士の家に生まれましたが、その境遇は坂本龍馬や岩崎弥太郎と同じでした。彼の父小一郎は岩崎弥太郎の片腕となって信頼を得ていたので、竜吉は岩崎家の援助で造船、海運を勉強するためグラスゴーに7年間留学していたのですが、その間彼の行きつけの本屋で働いていたジニー・イーディ(1864〜?)と恋仲になり、結婚の約束までします。
しかし父親の反対で二人は結婚できませんでしたが、竜吉は海運、農業などの分野でその後日本の各地でリーダーシップを発揮します。彼は函館で成功したのは、アイルランド系のジャガイモ、アイリッシュ・コブラーという白くて柔らかい品種を輸入して、普及したためで、彼が男爵に叙せられていたことから、それは男爵薯と呼ばれてもてはやされました。
彼は95歳という長寿をもって1951年に他界したのですが、彼の農場を買い取った木村正夫氏が農場の倉庫の中で発見したのは、これまで誰の目にも触れなかった89通のジニーの恋文でした。このことから若い頃の彼の愛が明るみに出たのでした。
【第回56】 2012年 7月20日(金) 18:00〜 参加者10名
発表者:国田 あつ子さん
テーマ:「スコットランドのフォークテイルとの出会い」

国田さんは協会事務局の高橋愛和さんと同じ教会に通っていて知り合いだったことから、「まろやかスコットランドの旅」に2度ほど誘われたのがきっかけで、スコットランドの魅力に目を開かされ、更に高橋さんばかりでなく、岸孝さんや、東浦義雄さんと知り合いとなったことから、東浦先生からスコットランドの民話のおもしろさを教えられたそうです。これが興味深かったので、国田さんは三村美智子さんなどと一緒に、原書でスコットランド民話を読む会を始め、その指導教官として東浦先生に教えを請うことにしたとのことです。それ以来民話の会の皆さんは10年以上にわたって勉強を続け、東浦先生が亡くなられた後も、さらに原書で民話を読み続けておられるとのことです。
【第55回】 2012年 5月30日(水) 18:00〜 参加者15名
発表者:岡田 昌子さん(RSCDS公認教師)
テーマ:「ダンスと私とスコットランド」

・始めに
私のスコティッシュダンスとの出会いは高校時代でした。当時GHQは東京大学経済学部大学院教授と日本銀行の監査役を兼ねる経済学博士として、シカゴ大学のスザンナ・ライカー女史を東京に招いていました。肩書きの厳つさとは裏腹に、ライカーさんは自宅で毎週末にフォークダンスの集いを開く両親に育てられ、音楽とダンスと人の和が大好きな、活き活きと魅力的な女性でした。シカゴの家庭での様に自宅に若人を集めてフォークダンスをテーマとするソシアルタイムを作りたいという彼女の希望で会は始まりました。毎土曜日の午後集まるのは、教会の会友で都立竹早高校の体育教師・大崎秀喜先生とその生徒であった私と友人一人、慶応高校の男子生徒二人、東大の大学院の男子学生数人、日銀の国際部の職員数人、合わせて十数人という小さい会でしたが、厳しい指導で、世界中の素晴らしいダンスを楽しむことが出来皆夢中になりました。
ここで出会ったのが Dashing White Sergeant と Eightsome Reel でした。スコットランドと言えば蛍の光・アニーローリーしか知らなかった私にとってこの躍動的なリールは衝撃的で、音楽もステップも一度で好きになりました。
2年ほど後に、ライカーさんはYMCAの体育館活動の一環としてこのダンスを教え始め、私は助手を勤めました。ここで学んだ人々が後々日本のフォークダンス界をリードする者になって行くのですが、その中に高校の体育教師であった池間博之さんがいました。フォークダンスの社会教育上の価値を認めた彼はやがてニューヨーク大学の体育学部の学生となって5年間、更に体操の国スエーデンで1年の6年間に世界のフォークダンスを学んで帰国しました。
ライカー先生と筆者(右から3番目)
・スコットランドと私の関わり
Royal Scottish Country Dance Society (RSCDS) New York Branch でScottish Country Dance (SCD)を学び、Society の創始者である Miss Jean Milligan から直接指導を受け、このダンスに熱中した池間さんは帰国後直ぐに共にこれを始めようと私を誘いました。理由は私が必ず熱中するダンスだからと言うことでした。先の事はともかく、池間さんの熱意に応えてダンス仲間を集め目黒区立下目黒小学校の体育館で始めたのが日本初の SCD Club、RSCDSが設立された1923年から丁度40年後の1963年でした。
当時英国大使夫人は熱心なSCD の踊り手で、大使館内や St. Andrew Society 会員にも沢山の優れたダンサーがおられ、私どもとの交流もたちまち盛んになりました。
1965年目下目黒小学校での講習会
1969年には豊島園で、日本初の大々的なハイランドゲームズが、ビスケットのマクヴィティ社主催で開催されました。堂々たる大編成のArgyll and Southerland 連隊のBag pipe Bandと海兵隊のMarin Band が銀座通りを練り歩き、武道館で大イベントを繰り広げた上での開会でしたから、その賑わいは一通りではありませんでした。当時世界チャンピオンとして人気絶頂のBilly Forsyth とその仲間が繰り広げる Highland Dance の華麗さ、ケイバー投げやハンマー、ウエイトといった、今ではお馴染みの種目も始めて観る目には驚異でした。その日デモンストレーターとしてステージの上でSCDを踊っていた私は、いつかは自分達でこの競技会を実現したいものだと夢見ていました。それから13年を経た1982年、当時キリスト教大学教授であったDr. Stuart Picken の強い牽引力で、遂に第1回東京ハイランドゲームズが誕生したのです。
1969武道館で演奏したパイプバンド
武道館で披露されたソードダンス
1975年、RSCDS の Royal Patronである エリザベス女王が来日された折に、これを記念して全国規模の SCD 講習会を企画しMiss Milligan に相談したところ、Piper でありSCDと Highland dance のTeacher である Bill Clement 氏を Scotland から派遣して下さいました。これを機会に日本の SCD活動は飛躍的な発展を遂げる事になります。
その翌年Miss Milligan は、彼女の秘蔵っ子であるハワイ在住の Mrs. Mary Brandon と Mr. David Brandon 夫妻を日本へ派遣されました。夫妻は日本における指導者養成の必要を痛感され、翌77年 RSCDS Hawaii Branch で教師試験受験資格試験を実施、池間さんと共に私は受験生として招かれました。試験官としての Miss Milligan にここで私は始めてお会いした訳です。既に80歳を超えてなお矍鑠として指導の陣頭に立つ女史は、私を柔らかく抱きしめながら、若々しい声を張ってこう言われたのです。
「My daughter, あなたがいるから、私は日本の将来を少しも心配していません。次にはスコットランドへ Teachers Full Certificate Examination 教師資格試験を受けにいらっしゃい。」翌年女史は亡くなられ、スコットランドでの再会は夢と消えました。しかし約束は守られ、私は1981年にSt. Andrews に於ける RSCDSの Summer School で教師資格試験に日本人として始めて臨み資格を取得しました。
1975年NHK高橋圭三アナの取材に答えるビル・クレメント氏
1983年に私は今は亡き夫の内藤愈吉生と共にTokyo Scottish Bluebell Clubを設立しました。
奇しくもRSCDS設立から60年、日本でSCDが踊られ始めてから20年、節目の年に当ります。
それ以来今日まで、次を担ってくれる教師の養成に力を注いできました。有難いことに大変な労力の要るこの資格取得に熱意を持ってくれる人々を得て、沢山の教師が育ちました。今では私がこう言う事が出来るほどに。「あなた方が居られるから、私は日本の将来を少しも心配していません」と。
スコットランドと私の関わり合いは、ダンスがその全ての根源です。何故ここまで深い関わりを持つに至ったか不思議に思えますが、教師の一人に言われました、Miss Milligan’s Daughter だからだと。彼女にそう呼びかけられた女性とMiss Milligan’s Boys と呼ばれた男性は、誰もその呪詛から逃れられない、それは彼女自身が her daughter だから良く分っているとも。何か因縁話のようですが、それも運命かと感じています。決していやでは無い運命だと。
東京ハイランドゲームズに例年来日される Jim Rae 氏はBill Clement氏の秘蔵っ子、師同様にPiperでSCD教師、しかも最年少のMilligan’s Boy です。彼は、私がRSCDSから長年の貢献に対する栄誉賞を頂いた時に ”Passing the Torch” という名のSCDを創作し贈って下さいました。Miss Milligan から聖火は私の手に、そして次には誰かに、そして永遠に燃え続けよと。

・Scottish Dance.の特性
SCDの魅力は何といってもその音楽と、それがソシアルダンスであることです。Miss Milligan は、第一次世界大戦で愛する人を亡くし、希望を失った大勢の女性達をみて、二度と戦が起こらないことを願って Scottish Country Dance Society を 設立しました。スコティッシュダンスの世界では仲間をダンスファミリーと呼びます。一度手をとって踊った人々は決して互いを敵にまわして戦いたいとは思わないはずだという考え方です。
その基本はソシアルダンスにあります。ダンスの間中共に踊る8人の仲間が互いに微笑みかけ、視線を送り、手を取り、誰でも無いあなたと踊っているのですよと挨拶を送る・・その中に醸し出される人の和と音楽のハーモニー、それがソシアルダンスの醍醐味です。Miss MilliganがInternational dance と位置づけた為に、SCDはScotland に留まらず世界中いたる処で愛好者を得て、今や東欧・ロシアにまでも支部が出来ています。SCDを生涯の趣味として国際的に楽しむ人が増え続けているのです。私もまた、このSCD界から生涯離れることは無いでしょう。

・スコットランドの絆
スコットランドには永遠に終わりの来ない Knot のデザインに観るように輪廻転生の思想がありますが、亡くなられた東浦先生は「僕は昔々スコットランド人だった」と言われていました。
ある時私に、僕らは隣同士だったのですよ、とおっしゃるではありませんか、ふとロマンスを夢見てその先を待っていますと、僕は小さな男の子でね、お隣に住むお婆様だったあなたがとても可愛がってくれたのですよ。とニコニコされながら言われたのです。
ダンス仲間のフィリスは代々セントアンドリュースの人ですが、自分が日本人であったと固く信じていす。小学生の時に空想で描かされた鳥の絵が、自分にさえ何を描いたのか良く分らない上に、教師にも友達にも笑われて深く傷ついたことがあったそうです。大人になって英語の教師として日本にやってきた彼女は、ある日骨董店の前で釘付けになります。大きな暖簾の真ん中に、あの時のあの鳥「千鳥」がいたのです。瞬間20年が飛び退り忘れていた思い出が蘇りました。

・終わりに
JSSに深く結びついている皆さんも、きっとどこかでこの Knot に繫がっているに違いありませんよ。さもなければ、日本人なのに、どうしてこれほどスコットランドに惹かれ、深く結びついてしまったのか、謎が解けないでしょう。
【第54回】 2012年 3月27日(金) 18:00〜 参加者13名
発表者:大石 晃士さん
テーマ:「サムライに英語を教えたスコットランド人」

グレンコーの悲劇を辛うじて逃れたアーチボルト・マクドナルドを父とし、ネイティヴ・アメリカ人の酋長の娘を母とするスコットランド人、ラナルド・マクドナルド(1824〜1894)が今回のお話の主人公です。

自分の血には日本人の血が混じっていると思い込み、日本を訪れたいと願ったラナルドは、20歳で捕鯨船に乗り込んで、太平洋各地を訪れ、嘉永元年(1848)には北海道の利尻島付近で遭難を装い、救助されましたが、当時の鎖国制度によって監禁・取り調べを受けます。
やがて長崎の出島に移送された彼は、座敷牢に監禁されますが、そこに英語の通辞が殆どいなかったため、7ヶ月にわたって英語の通辞を教育したとのことです。
この時の弟子は14名で、特に秀才だった森山栄之助はペリー来訪の時、英語の通辞として大活躍したそうです。
その後嘉永2年にラナルドはアメリカの軍艦に引き取られて帰国し、その後「マクドナルド日本回想記」の原稿を書いている途中で、明治27年(1894)に「ソイナラ・マイ・ディア・ソイナラ」と日本語で別れの言葉を呟きながら、アメリカのオレゴン州にあるフォート・コルヴィルの自宅で亡くなったとのことです。
【第53回】 2012年 1月19日(木) 18:00〜 参加者20名
発表者:高橋 愛朗さん
テーマ:「高橋 愛光とEdinburgh」

JSS理事・高橋愛朗さんの大変素晴らしいスピーチがありました。
海外で事業をするとはこういうことなのでしょうか。全内容を紹介いたしますので、じっくりお読みください。


「高橋 愛光とEdinburgh」

本日は Scotlandへの恩返しの一貫として「日本スコットランド協会」を設立させた私の亡き父 高橋 愛光 とEdinburghと題してお話しをさせて頂きます。稚拙な内容となると思いますが、Scotlandを愛する御心で最後までお付き合い頂けますようにお願い致します。

高橋愛光は 洋酒輸入業界では「あいこうーさん」と親しまれておりました。「あいこうーさん」と言えばOld ParrですのでまずはOld Parr についてです。

Old Parr は明治の元勲 岩倉具視が欧米視察旅行の際、お土産として英国から持ち帰ったと言われています。それ以来、日本政府の高官の多くがOld Parrの愛飲者となり、吉田茂元首相、田中角栄元首相は特に有名で、元旦の御屠蘇にもOld Parrが用いられたのは業界では有名な話です。Londonの日本大使館でも歴代大使が接客用にOld Parrを用いていました。
父はOld Parrを通じてScotlandを知ったわけですが、初めてScotlandを訪問したのは、1970年(昭和45年)の9月です。当時、父は神戸にありました輸出入会社に勤めており、海外への輸出商品の船積手配を担当する部署の責任者でした。何故輸出担当責任者がScotlandを訪問したのか?

エジンバラ・フェスティバルでお神輿担ぎ
1970年は大阪にて万博博覧会が開催された年です。その当時はまだスコッチウイスキーは輸入枠によって輸入制限を受けており、総輸入量は約30万ケースでした。その輸入の大半はJohnnie Walkerに集中しており、Deluxe第2グループはLorgan, Buchanan Deluxe, Pinch(Dimple)であり、Old Parrはそれより低位置で6,000ケース程度でした。その様な中、万博用には特別輸入枠が設定され、父の勤めていた会社はOld Parrの日本に於けるサブ販売代理店でしたが、通常の4分の1サイズ瓶を1,000円にて販売する計画を立てました。

当初販売予定は1000ケース(4万8千本)でしたが、売上は好調で結果、万博期間中に3,000ケースを販売しました。これが後日 Deluxe Scotch Whiskyのトップブランドになる Old Parrの飛躍の布石となりました。
大成功となった4分の1サイズの発案者は 輸入洋酒業界での実力者でした西岡一郎氏ですが、その西岡氏が父をOld Parrの新たな担当者として急遽指名。指名理由は父が神戸2中の後輩と分かったからだそうです。西岡氏のこの指名がなければ父とScotlandの繋がりは無かったかもしれません。

1970年9月末 父は大阪万博の販売報告 及び日本におけるスコッチウイスキーの将来性を討議する為にEdinburgh市を訪問する事になりました。この訪問は父にとって初めての海外旅行でしたので、西岡氏が全ての準備 @航空券の手配(割安券の為 座席は一番後ろの席)、A同行者の手配(西岡氏の部下で旅慣れた若手を同行者に)BLondonのヒースロー空港での出迎えのアレンジ等をして下さり父は素晴らしい先輩に感謝、以降 西岡氏は父にとって大恩人となります。 アンカレッジ経由で英国着後 数日間Londonにて体調を整えるというご配慮付きです。父は翌朝、朝食時にホテルの食堂から見た、ハイドパークでの光景,すなわち、数人の紳士淑女が馬に跨って悠々と朝の散歩を楽しんでいたり、多くの鳥達が水辺で餌をついばんでいる平和な光景に海外旅行での最初のカルチャーショックを受けました。それ以来、父は朝食のパンをひとつポケットに忍ばせ、食後の散歩に鳥達と仲良くすることが英国旅行での楽しみの1つになりました。

数日間Londonで過ごした後、フライング・スコッツマンにてEdinburghのウエーバリー駅を目指しました。当時父は「飲めない、食べられない、喋れない」という海外旅行には不適格な人物でした。「飲めない」とはスコッチウイスキーどころかアルコールは全然駄目で、医者に「少しはお酒を飲むように!」と勧められ、漸くビールをコップ半分くらいは飲めるようになった程度でした。「食べられない」とは洋食が苦手で、薄味で少量ずつ多品種を食べるのが好みでした。「喋れない」、当時は英語も駄目でした。その後は社員全員に英語を必須科目に課す程になりました。因みに引退後はギリシャ語を学んでいました。

その様な状況下、父はEdinburghで大歓迎を受け、常にOld Parrでの乾杯、有名レストランでの豪華食事会の連続と本人にとっては苦痛の連続だったそうです。会議は無事に終了。その際の内容が高く評価され、後にOld Parrの日本での販売を全面的に任され、総代理店となるオールドパー株式会社を1973 年(昭和48年)10月に設立することになります。
3重苦でのEdinburgh滞在でしたが、ナショナルパーク内の池に浮かんでいる沢山の水鳥、のんびり草を食んでる羊、そして田園風景に心温めてもらったようです。夜空に浮かびあがるEdinburgh城の峻烈な姿は父をして「スコットランドは第二の故郷」と供述させるようになります。

Old Parrの好調な販売に伴い、父はスコットランドへの恩返しを考えます。日本に於いては1985年(昭和60年)に日本スコットランド協会を設立しました。設立目的はご存じの通りです。同時期に、より多くの方々にスコットランドを訪問してもらいたい。との思いからEdinburghに旅行代理店 Jascot (Japan Scotlandの略) Travel社を設立(1984年5月設立〜2001年9月解散)。そして、日本の食文化を紹介する為に、Edinburghに日本レストランAYEを開店(1985年5月開店〜1988年3月閉店)させました。
私はこの Jascot Travelの立上げ と レンストランAYEの開店・運営に携わりました。
エジンバラ・フェスティバルで花笠音頭を披露
Old Parr株式会社では営業活動の一環として取引関係者の方々をスコットランドへご招待していました。 旅行はOld Parrツアーと称していました。私は19歳の時(1974年)に欠員者の補充として急遽訳もわからず、この旅行に参加する幸運に恵まれました。この旅行が私にとっての最初の海外旅行で スコットランドへの第一歩でした。その後、一度旅行にてスコットランドを訪れ、大学卒業と共に1977年から1年間Old Parr株式会社の海外研修生の3人目としてEbinburghに滞在しました。
Old ParrツアーのアレンジはLondonに事務所を構えるミキトラベル等の旅行代理店にお願いしていましたが、Scotlandに関しては自分達の方が情報量も多くなってきたため、Londonの旅行代理店のアレンジに満足しなくなってきていました。それならば自分達でアレンジしようとJascot Travelの設立と共に、念願でしたEdinburghでの純和食レストランを自分達で開店しようと父は考え、私がその担当になってしまいました。

Jascot TravelはEdinburghに長期滞在中の日本人を責任者として、現地の旅行代理店経験者を採用し、スムーズに設立出来ました。1984年当時FAXの手配をするのに、FAX自体を理解してもらうのに一苦労したことを覚えています。今から思えば笑い話ですが、「どうして、電話回線を使って文字を転送出来るのか?」となかなか理解してもらえませんでした。当時は海外とのビジネス上の交信はまだテレックスが主力でした。

また経理では5ペンスの誤差に対して「問合せの為の電話代の方が5ペンス以上になるから気にしなくて良い!」と会計事務所の責任者から言われた時には「日本では1円の誤差は100万円の誤差の兆候」と教わっていましたので、「何と日本に報告したものか?」と悩みました。何とか日本サイドには商習慣の違いと理解してもらいましたが。
逆に現地の人に理解してもらうのが困難だったアレンジもありました。日本からの某有名グループ社長のたばこが旅行中に無くなった為、Londonから届く「社長ご指名日本製たばこ」を社長ご一行の滞在するSt.AndrewsのHotelへ届けるというアレンジでした。「たばこ」だけを届けるアレンジです。宅急便なんてありませんでしたので、タクシーの運転手に「日本製たばこ」だけをホテルまで届けてもらいましたが、「運転手からは日本人はクレイジー?」とパブでのジョークに使われたのではないでしょうか。
リー・トレビノとサンディー・ライルと一緒に父、愛光とスピーカー
日本からのScotch Whisky輸入関係者の通訳依頼に際しては私が通訳として担当し、他社の極秘情報を得たこともありました。
またゴルフ場のアレンジ依頼と共に、プレイヤーが一人の場合には私が同伴プレイをしたこともあり、帰国後 その方とは仕事の関係が出来、役立ったこともありました。地元メンバーの同伴が必要なゴルフ場のアレンジの場合は、知合い又は知合いの知合いにメンバーがいないかを尋ね、プレイをアレンジしたことも何度かありました。
スコットランドではゴルフが簡単に出来るので多いにプレイを楽しみました。7月頃は事務所の仕事が終わる午後6時からでも1ランド出来ましたし、冬は凍ったコースの中でもラウンドしボールが転がり、思いもよらぬところに着地するのを確認しながらでもプレーし、余りひどい時には途中で止めたり。という具合でした。日本のゴルフコースではハーフ9ホールで一度クラブハウスに戻るのが普通ですが、St. Andrewsでは OUTの9ホールは行きっぱなし、INの9ホールで戻ってくるのでOUT・INの本来の意味を実感出来ました。

地元の方がたの推薦を頂き私もゴルフクラブのメンバーに迎え入れられましたが、メンバーにとってゴルフクラブは正しく社交場としてのクラブでした。メンバーはほとんど毎週末、決まった時間にプレイをするので予約無しで知合い同士適当にスタートして行きます。
いつも来るメンバーが来ない時には「あれっ?Johnは病気かな?」「いいや、バカンスでSpainだよ。」という具合でした。キャディーは通常付けずに自分でクラブを担ぐか、手引き車に乗せて引っ張るか、と全てセルフでした。メンバーであれはゲストプレイヤーを招待出来るのは日本と変わりませんが、私の所属したクラブでは、ゲストのプレイ費は何と1ポンドでした。今のレートでしたら125円です。私もメンバーになる前に何度かご招待を受け恐縮していたのですが、その金額を知った時には、変に安堵したのを覚えています。18ホール全部を廻らずに、「このホールが家に近いから」と途中で帰る人もいました。

私がメンバーに迎えられた最初のプレー終了時にはクラブハウスにいたメンバーから「歓迎の1杯だ。俺の奢りだ。」とウイスキーを1杯ご馳走になり、その後約20名のメンバーから「今度は俺の奢りだ。」と次々に同様の歓迎を受け、断るのは失礼だと思い杯を重ねました。結果、何とか帰宅は出来ましたが、どのルートを運転して帰ったのか覚えていない状態で交通量の少ない当時で本当に良かったです。その当時、飲酒運転は厳しくなかったので事故さえ起こさなければ大丈夫との感覚でした。
その当時 英国は不況でしたが日本は景気が良く、リゾートホテル付きのゴルフ場は日本の企業が買収しだしていました。その内の1つ、ターンベリーでの思い出の写真を持参しました。父の右隣がリー・トレビノ、左端 私の右隣がサンディー・ライルです。
次に、レストランAYEに関してですが、こちらは本当に大変でした。1984年の4月、Jascot Travelの開設と共に、レストランの物件探しのお手伝いをしていました。物件探しは自分達の足で探し廻ることにしました。
物件の条件は、「日本人旅行者にも便利なところ。」でしたので、Princess Streetからさほど遠くないNew Townの一角にて探し廻りました。景気が悪く空き物件はかなりありましたが、空き物件の中には良き場所がないので、目星を付けた物件を直接交渉で所有者から賃貸しようと計画しました。が多くの物件が金融会社または年金機構の所有で、Londonの本社に何度も訪れ、計画書等の資料と共に説明を繰り返しましたが、「飲食店に賃貸すると その物件の価値が下がる」との理由でどうしても賃貸契約は出来ませんでした。約2ヶ月が無駄に過ぎ去ろうとしていましたので、物件探しの方法を変更し、既存のレストランの買収に切り替えました。
その際には地元で「飲食店に精通している弁護士」を紹介してもらい、スイスレストランの買収に成功しました。買収価格交渉の際に Goodwill との項目があり、最初は何のことか理解出来なかったのを覚えています。所謂「のれん代」と分かりましたが、その割合が大きいのには驚かされましたが、オーナーへの損害補償料だったわけです。レストランの場所は 80 Queen Street。 Princess Streetからは, George Streetを挟んで2本目。West Endの角地と最高の立地条件でした。

その後は急ピッチで開店へ向けての準備に追われました。この頃から、レストランの責任者は当初予定していた方ではなく、私がレストランの開店・運営の責任者となってしまいました。当時私は28歳で何も分からない状態での飲食店の開店、それも海外での開店でしたので全ての分野でそれぞれの専門職の方々にお世話になり準備は進められました。取得した物件は1階と地下がありましたので、1階には寿司カウンター:天ぷらカウンター、和室:一般席と厨房を配置そして、地下1階は鉄板カウンターと一般席、保管庫を配置することになりました。準備の主だったところでは、レストランの内装工事、従業員の雇用、各種必要免許の取得、従業員用社宅の確保そして日本人スタッフの労働許可証の取得等です。

開店するレストランを通じて「日本の食文化をScotlandに伝える。」ことが目的でしたので、1階部分はその当時Londonにあるどの日本レストランよりも純和風に仕上げる為にと全ての内装材を日本から取り寄せ工事は行われました。工事の見積もりに関して、日本でしたら工事業者と施主の間で直接その額を確認し合いますが、Scotlandでは、工事の見積もりが妥当であるかどうかを検査する サーベィヤーと言う職種の存在が中間に入ることを知ったのもこの時です。作業は日本人大工とスコットランド人の共同作業でしたが、「のこぎり」が両国で異なることにお互いの職人が愉快に笑っていたのを思い出します。日本の鋸は引きますが、スコットランドは押します。
従業員は現地採用はキャッシャーの女性とホールの男性の2名。その他の20名は日本人でした。日本人採用は日本で行われましたが、海外での就労経験のある者は4名。
日本人スタッフ用 労働許可証の取得が非常に大変でした。その当時 Londonにあった丸紅等の商社でさえ、20名の日本人スタッフへの労働許可証は取得していなかったと聞いています。当時、労働許可証を取得出来るのは20名〜30名の現地採用に対して日本人は1名のみ。現地採用者が持っていない資格所持者又は役職が必要不可欠でした。そのような条件下で労働許可証20名分を全て取得出来たのは担当弁護士の力量としか言いようがありません。労働許可証取得の朗報が届いた時には、安堵の思いから涙が溢れ出しました。あの時の感情は今も忘れる事はありません。

仕入れに関しては魚介類が大変でした。スコットランドも海が近いので新鮮な魚が簡単に手に入るだろうと考えていました。が、現地の新鮮な魚は日本料理には使用できない状態で、英語でのFRESHでは駄目でALIVEで漸く質が確保されるようでした。ScotlandにはAliveではなくFreshな魚しかなくScotlandの魚卸売市場からの仕入れは断念しました。
その当時 Scotlandで収穫された魚はまずはLondonの市場に送られ、その後,再度 Scotlandに送られてきていました。Londonの日本レストランの多くもフランスの業者から仕入れているとのことでしたので、我々もパリの業者から仕入れる事にしました。その中でマグロの保管がまた問題になりました。マイナス数十度がマグロの保管には適しているというのですが、その様な冷蔵・冷凍庫がなく、結局 医療用の冷凍庫を手配しました。
レストラン開店後は漁師が直接 店に売り込みに来るようになり「とにかく何でも捕れたものを持ってくるように」と伝えていました。ある日、その中に「うに」を発見。かなり小ぶりでしたが味は良く、「使える」と料理人が判断。その時の漁師の驚きの顔は忘れられません。 Scotlandで「うに」は子供達がサッカーボール代わりに遊ぶもので、「日本人はこれを食べるのか?」という驚きです。和食のお品書きの内容も、日本から手配された器類の知識もなく、英語に訳すのに悪戦苦闘したのも今となっては懐かしい思い出です。

レストランは 愛 と名付けられ、アルファベット表記は AYE と決定しました。愛の漢字は日本に於いてもOld Parr社の関連飲食店に付けられていました。A・Y・E はスコットランド独特の表記であり「はい」と言う意味合いと知り決定されました。
1985年5月にレストラン愛は準備完了し、2日に亘るレセプションの後、正式に開店出来ました。Edinburghでの純日本レストランAYEの開店は多くのマスコミに紹介され、その評判は瞬く間に広がりました。残念だったのは料理の値段が、現地の一般の方々にとり非常に高くまた量が少な過ぎて満腹感がない、との酷評を頂いたりもしました。
が、その年刊行のGood Food Guide誌で「ヨーロッパ一の日本レストラン」の折り紙を付けられ、ミッッシェラン・ガイドブックでもまだ1年もたたないのに、刊末で素晴らしい日本レストランが出来たと紹介されていたのを覚えています。因みに他のヨーロッパ内の日本レストランはどこも掲載されていませんでした。

本日はScottish グルメガイド「A Flavour of Edinburgh」のみ手元に残っていましたので持参致しました。AYEはFOOD、AMBIENCE、SERVICE,、Value for Money 全ての分野で5点満点中5点の最高評価を頂きました。満点のレストランは、紹介されています98のレストラン中、AYEともう1店FifeにありましたPEAT INNの2ヶ所のみでした。

日本語での営業時間・休日の紹介の後に「ジーンズでのご来店はご遠慮ください。」「ご夕食時にはネクタイ・ジャケットの御着用をお願い致します。」と明記していますが、その理由は現地の方々は特別な日におめかしをしてAYEにご来店下さっていましたので、日本の方々にも 定食屋に行くような服装ではなく 適正な服装をお願いしようとの判断からでした。その決定直後に元ラグビー日本代表で有名な平尾誠二さんが他のラガーと軽装でご来店され、事情をご説明し地下の目立たない席にご案内しなければならなかった時には、判断を誤ったのでは? との思いにかられました。それ以来、ドレスコードをご存知でなくご来店の方用に、ジャケットとDunhill のネクタイを数種類ご用意をして対応する事にしました。このサービスはご来店の日本の皆様にもご理解を頂き、Dunhillにも喜んで頂けました。

レストランAYEとJascot Travelを通じて多くの現地の方々とお知り合いになることが出来ました。各ホテルの支配人、Assistant Manager、Head Porter等とは懇意にさせて頂きました。彼らは、レストランAYEはライバルではなく、宿泊客のレストランの選択肢が増えると非常に好意的に受け入れて下さいました。もちろん毎年ご招待を致しました。逆にご招待にあずかることもありました。グレンイーグルスホテルがレジャー施設を完備した際にはご招待を受け、生まれて一度だけのクレー射撃を経験させてもらいました。現地のパブのオーナーともOld Parrスタッフとの関係のお陰で、非常に友好的でした。
AYEのスタッフがお世話になった病院・警察。総合病院は日本人にも無料だったのには助かりました。今25歳になる娘もEdinburghのWestern General Hospitalにて出産でした。その際、鉄分不足の補給にと妊産婦にギネス・ビールが配られたのには驚かされました。
警察はAYE日本人スタッフが地元の若者と喧嘩をした際、また盗難にあった際に呼び出されたりもしました。自宅でScotch Whiskyを飲みながら寛いでいるときに呼び出され、酒臭い状態で警察に行っても寛容に対応してもらえました。その他、日本人の事故の際にも手助けが必要だと、呼び出されたこともありました。

Edinburgh空港のBAスタッフには本当にお世話になりました。日本への帰国便の荷物をEdinburgh空港にてチェックインする際に、規定重量オーバーであっても追加料金はサービスしてもらっていました。もちろんレストランAYEにはご招待していました。もう時効ですので・・・。 国際線担当のImmigration Officerからの呼び出しも1度や2度ではありません。でも皆さん本当に好意的でした。
 Edinburgh Festivalの開催期間中、レストランAYEには日本ではお目にかかれない多くの著名人もご来店下さいました。指揮者の小沢征邇さんは公演後毎晩数人の演奏者とともにご来店下さり、私はクラッシック音楽が大好きですので、「頑張ってて良かった!」との気持ちになったことを覚えています。女将・寿司職人と共に出前の注文を受けたこともありました。St.Andrewでのゴルフ大会での懇親会。当時の新日鉄ラグビーチームの遠征レセプション。Glasgowでのイベントにて寿司・和食コーナーにて和食を紹介したのも良き思い出です。もちろん中島・尾崎らの日本人ゴルファーにも喜んで頂けました。  当時、Scotlandに進出していた日本の企業はNEC、三菱電機、信越半導体、大和スポーツくらいで、日本人会は100名程で組織されていました。我々の日本人スタッフも仲間に入れて頂けゴルフ会等にも参加させて頂きました。本日はEdinburgh Festivalのパレードに御神輿を担ぎ、花笠音頭を披露した際の写真を持参致しました。このパレードはレストランAYEが中心になって行いましたが日本人会の方々にもご参加頂きました。
スコットランドのグルメガイドで4部門に満点評価
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1987年秋からは、それまで以上に日本との連絡回数が増えました。1986年は英国で、金融界ビッグバンが行われた年です。その影響からか、その後 企業買収が頻繁になり、Old Parrブランドを所有していましたDCLも規模ではDCLよりも小さなGUINESS社に買収されてしまいました。その結果、日本のOld Parr 株式会社にも代理店契約を解消する旨の告知書が届くという大事態に見舞われてしまいます。私は現地 スコットランドの弁護士と共に情報を収集したり、日本の本社からの問い合わせ、指示への対応に忙殺されました。 それまでも レストランAYEは月曜日のみが休みで、オフィースは日曜日が休みと、私は休む日がありませんでした。その頃からは9時間の時差の関係で東京の朝9時は Edinburghでは夜の12時ですので、深夜にず〜〜と日本からの連絡が届きます。東京時間の金曜日夜の指示連絡が最悪で、東京からは「じゃ〜 週明けで良いから調べて報告下さい。」と余裕をもって言われても、その時間はEdinburghの午前中。金曜日なので下手をすれば午後からは相手がつかまらないことも予想され、2〜3時間が勝負という状況でした。
今もう一度 同じようにやれ!と言われても肉体的にも無理です。

結局 企業買収の流れには逆らえず1988年3月に レストランAYEを売却をし、Jascot Travelは現地責任者に任せて私は日本へ帰国しました。その後もJascot Travelは存続していましたので父は他界する1993年3月までブラックプールでのダンス大会を楽しみに英国訪問は続けていました。私も Old ParrのStandard Whisky Claymore BrandがDCLから他社へ売却された関係でScotlandとのビジネスは続いていました。現在はそのClaymore も他社の扱いブランドとなり、ロイヤルリカー株式会社としてのScotch Whiskyの取扱はありません。

以上で「父 高橋愛光とEdinburgh」そして,それに伴う「私とEdinburgh」の話を終わらせて頂きます。ご清聴 誠に有難うございました。

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