◆東京・横浜に“スコットランド”を探る会 第2シリーズ◆
第1回 「工部大学校」関連―虎ノ門及び東京大学本郷校舎
第2回 東京都水道歴史館(本郷)・国立科学博物館(上野)
第3回 横浜関内(ブラントン関連を中心に)
第4回 浅草凌雲閣記念碑と江戸東京博物館
第5回 横浜山手
第6回 明治丸
第7回 築地外国人居留地跡・銀座煉瓦街の碑
第8回 明治学院白金キャンパス・三菱史料館
第9回 青山霊園 聖アンデレ教会
第9回 青山霊園 聖アンデレ教会 2011年11月24日(木) 参加者11名
(1)青山霊園
最終回ということで11人の参加者が、秋晴れの気持ち良い日よりを、稲永丈夫さん制作の詳細なガイドを参考にしながら以下の墓に詣で花をささげた。

1 ブリンクリー父子: 一般墓地1イ1:28−3
父:Captain Francis Brinkley(1841-1912)
海軍砲術学校で砲術を、工部大学校で数学を教えた。“ジャパン・ウイクリー・メール”を創刊し日本文化の紹介に努める。当時英国の法律では外国人子女との結婚は禁じられていたので、ロンドン法廷に訴え、正式な認可を得て日本女性と結婚した。
長男:Jack Ronald Brinkley(1887-1964)
第2次大戦後極東裁判検事団の翻訳課長。立正大学で英文学を教えた。出版社「英宝社」を設立。 戦争中敵国人として迫害を受けたにも拘わらず、生涯日本を愛した。

2 ショー:Alexander Croft Shaw(1846-1902) 一般墓地1ロ7−14−17聖アンデレ墓地
布教が禁じられている時代に宣教師として来日。福澤諭吉の子女の家庭教師となり、併せて慶応義塾で倫理学を教えた。聖パウロ会堂を建立、聖アンデレ教会を創立した。軽井沢を避暑地とした。

3 ウエスト:Charles Dickinson West(1847-1908) 外人墓地南2−イ4:24-25
工部大学校校長ダイアーの後任として機械工学教師。新設された造船学の講座も兼任。死ぬまで、工部大学校及び帝大工科大学で教鞭を取り、日本機械工学の礎を築いた。

4  ヒュー・フレイザー:Hugh Fraser(1837-94) 南1イ8:61−63,70−72
在日英国公使として不平等条約改正交渉に英国側を代表して交渉に当たり条約改正を実現させた。フレイザー夫人は「英国公使夫人の見た明治日本」を著わした。

5 フルベッキ:Guido Hermann Fridolin Verbeck(1830-98):外人墓地南1イ6:46−47
明治政府の法律顧問として新政府に対し、右大臣岩倉具視を団長とする視察団を欧米へ派遣し、近代国家の有り様を探るよう建策したと言われる。明治学院創立者の一人。

6 パーマー:Henry Spencer Palmer(1838-93)   外人墓地 南1イ6:40−41
横浜水道建設工事監督。日本の近代水道のモデルケースとなる。大阪、函館、東京、神戸各都市の水道計画設計にも携わる。横浜築港計画にも深く関与。

7 マリア・ツルー:Mrs.Maria Albert True(1840-96)  北1−イ5:45
夫アルバート・ツルーがスコッツ移民の子。日本最初の看護婦養成所や女子の職業教育の職業女学校科を創設。女子学院創立に関与。

8 ダン:Edwin Dun(1848-1931) 外人墓地南1イ2:15−18
日本開拓使顧問(畜産担当)として欧米式近代農法や獣医学の技術・知識を伝授、指導。真駒内種畜場、新冠牧場を立ち上げ、北海道牧畜業の基礎を築き、北海道酪農の道を拓いた。

9 バートン(和名バルトン):William Kinninmond Burton(1856-99) 一般墓地1イ11−10
*帝大衛生工学の初代教授、内務省衛生局の主任技師も兼任し、在任9年間に、全国の政令都市30の内、24都市の衛生調査、水道設計を手がけ「日本近代水道の父」と言われる。東京の下水道も設計。日本初の高層建築、「浅草凌雲閣」の設計施工。

(2)聖アンデレ教会
好転気にさそわれてつい昼食を取った六本木から聖アンデレ教会まで歩いたが、さすがにこれは歩きでがあった。
女性司祭の笹森さんより、ショー師の事績のハンドアウトや聖アンドレ教会125年史のパンフレットなどをいただき、お話を伺う。教会は大震災や戦火のため何度も立て直しがあり創建当時の面影はなく、ショウ師の遺品も残っていないそうだ。またショウ師は日本人に対して一段と高いところから信仰や知識与えるような態度をとらず、常に日本人と同等の立場を取っていて、日本政府が諸外国と結んでいた不平等条約の改正にも熱心に協力していたと話された。

今回で探訪の会第2ラウンドを終了する。番外の軽井沢を含めると10回にわたる探訪に参加された皆様のご協力に感謝します。
ダンの墓前で稲永さんの解説を聞く
ウェストの墓の草を刈る
第8回 明治学院白金キャンパス・三菱史料館 2011年11月20日(木) 参加者8名
今回の訪問地は土曜日には開かれていない場所なのでウィークデイに行いましたが、一般からの参加者もあり久しぶりににぎやかな探訪になりました。

(1) 明治学院白金キャンバス
国の重要文化財のインプリー館は内部の見学ができず、外観のみを見学。ここにインブリー博士が長年居住したので、この名がある。
ウイリアム・インブリー(1845-1928)は祖父の時代にスコットランドから移住したスコティッシュ・アメリカン。長老教会牧師として日本に派遣され、18年間に亘って長老教会の建て直しと長老主義神学教育の確立に尽力した。即ち、日本における長老派ミッション三つを統合・合同して、「日本キリスト一致教会」(後の日本基督教会)を創立し、続いて築地に「東京一致神学校」を設立した。この神学校に、横浜から移転したバラ塾(ヘボン塾の後身)で行われていた男子普通教育を連結し「築地大学校」と改名しさらに続いてヘボン等と共に、白金台に移転し「明治学院」へ発展させた。日本におけるキリスト教界の指導者を数多く育て、スコットランド系プロテスタンテイズムの確立に寄与した。(ミニガイドより)

歴史資料館は港区の有形文化財に指定されている。ヘボン式ローマ字でなじみ深いヘボン博士の興味深い資料が、日本初の本格的和英辞書―和英語林集成、昔話瘤取りの翻訳、ヘボン家の紋章など豊富に展示されている。

*ヘボン博士として知られているが正式名はジェームス・カーテイス・ヘップバーン(1815−1911)。
曾祖父の代に移住したスコティッシュ・アメリカン。海外宣教の召命を受け、医療宣教師として1859来日。横浜居留地39番地を居宅として、診療所とヘボン塾を開いた。1867日本初の本格的和英辞書「和英語林集成」を上海で刊行し、その第三版の版権を丸善に売却して、その代金を明治学院創設の資金に寄付、現在の白金高輪台に開校し、初代総理(総長)となった。ヘボンの日本滞在は33年に及び、その功績は医療、教育、宣教と幅広い分野に亘ったが、中でも特筆されるのは上記和英辞書の刊行とその中で「ヘボン式ローマ字」を発明し、今日まで名を残していること、また仲間の宣教師らと共に聖書全巻の日本語訳を完成したことであろう。 (ミニガイドより)
瘤取り
和英語林集成
(2) 三菱史料館
岩崎邸の裏側の静かな住宅街の中にある三菱経済研究所の1階にあるこじんまりした資料館。まず三菱の歴史についてのビデオを見る。三菱合資会社創立時の会社幹部の写真、男爵岩崎彌太郎より伊藤博文宛「グラバー賞勲の請願書」、外国人雇入お届[グラバーを雇用するに当たって許可を願っている]、 グラバーの月給650円の受領書[英文]など興味深い展示品があった。
「晩年のグラバーは三菱の本社の渉外関係顧問に迎えられ、長崎から東京に移り住んだ。技術導入など三菱の国際化路線のアドバイザーとして活躍。在日外国人社会における人望は絶大で、鹿鳴館の名誉セクレタリーにも推され、明治日本の国際交流に貢献した。グラバーに対する三菱の評価は高く、たとえば明治34年の月給は手当込みで720円という厚遇で、最高幹部である管事の荘田平五郎の600円よりも多かった。」同館解説、より
ヘボン家紋章
ヘボン博士胸像の前にて
第7回 築地外国人居留地跡・銀座煉瓦街の碑 2011年9月24日(土) 参加者5名
暑さも峠を越えた秋晴れの一日、一般の方からの参加者も交え築地の外国人居留地跡を探訪しました。

築地外国人居留地は1869年に現在の明石町に設置され、1899年の条約改正により治外法権が撤廃されるまで存続しました。外国公館や外国ミッションが居住し、後に政党、印刷所、新聞社が多く見られるようになりました。築地で発祥・開設された学校は13校ですが、今回は関東学院、青山学院、女子聖学院 慶応義塾 明治学院(創立者のW.インブリー、J.C. ヘボンはスコットランド系アメリカ人、来月は白金のキャンパスを訪問予定)、立教学院、立教女学院、女子学院、工学院大学 (工部大学校の出身者が発起人)、海軍経理大学の碑を訪ね、日本の近代教育がここから発展したことを実感しました。

このほかに通りがかりに海軍発祥の地(水神社)、ガス街灯柱(鉄の柱はグラスゴーから輸入)、蘭学事始の碑、築地病院跡の碑、シーボルトの胸像、へンリー・フォールズ住居跡、トイスラー記念館、電信創業の地の碑等を見ました。

昼食後は徒歩で銀座8丁目へ出て、金春通りにある銀座煉瓦街の碑をみました。銀座は丸の内とならんで、日本に2箇所しか建設されなかった煉瓦街の一つです。明治5年(1872年)から明治10年(1877年)にかけて当時の国家予算の4%弱を費やし、延べ10,460mという世界でも珍しい規模のものでした。設計者はアイリッシュ系スコッツの土木技師、トーマス・ジェイムス・ウォートルス(Thomas James Waters, 1842 - 1892)で、1865年頃来日。薩摩の紡績所、製糖工場、火薬製造所、機械工場等の建設に従事。大阪造幣局、英国公使館の建設にも携わりました。

昭和63年(1988年)に銀座8丁目8番地(旧金春屋敷地内)でこの煉瓦街の遺構が発掘され、大部分が今年の2月に見学した江戸東京博物館に展示されています。その一部を「銀座金春通り煉瓦遺構の碑」として平成5年(1993年)9月に建立されました。明治初期のガス灯や張り板、提灯など当時の金春通り煉瓦街を偲ばせる古い写真を元に銅版に彫金したものです。
明治学院の碑
青山学院の碑
指紋研究発祥の地
工学院大学の碑
水神社[海軍発祥の地
煉瓦街遺構の碑
第6回 明治丸 2011年7月18日(土) 参加者9名
1876(明治9)年、明治天皇は奥羽・北海道巡幸の帰途、明治丸に乗船し7月20日に横浜に帰航した。この日が後に「海の日」となった。この海の日に東京海洋大学で行われる明治丸シンポジウムなどの記念行事に参加した。

1)海事ミュージアム特別展示:「明治丸の軌跡を求めてー海洋立国日本のあけぼの」
明治丸は明治7(1874)年に灯台の巡回視察船として、工部省灯台寮がグラスゴウのネイピエ造船所に発注し、建造された。二本マストを備えた現存する日本最古の鉄製汽船。当時の最新式汽船で、明治9(1876)年の明治天皇東北巡幸の際、函館から横浜まで、天皇を乗せ、横浜に帰着した7月20日が「海の記念日」となり、後に2003年(平成15年)の祝日法改正(ハッピーマンデー制度)により、7月の第3月曜日が「海の日」となった。昭53年重要文化財に指定。
資料館には山尾庸三の名で「蒸気船一艘英国ヘ注文伺」、「燈臺巡回船発注ニ関スル伺」、伊藤博文直筆のブラウン船長宛英文の「回航指令書」などが展示されていた。

2)明治丸船長アルバート・リチャード・ブラウンについて
Albert R Brown(1839-1913)は、スコッツを父としてイングランドに生まれた。ブラントンの推挙で、灯台建設用資材や人員を輸送する船の船長に雇用され、ブラントンの灯台建設を支えた。日本政府の依頼を受け、将来の商船隊の軸となる日本人船員の教育にも当たった。1874年、ブラウンは政府からの命でネイピア造船所から明治丸の引渡しを受け、日本に回航した。その際、三菱から船二隻の買い付け依頼を受け、以後三菱との関係が深まり、1885年NYK誕生により、その総支配人に就任、数多くの同社の新造計画を手がけた。1889年NYKを退社しグラスゴウに帰国した。勲三等旭日賞を贈られると共に、在グラスゴウ日本領事に任命された。

3)明治丸シンポジウム
海洋大の越中島会館で13:00から行われた明治丸シンポジウムは、JSS理事で東京パイプバンドの山根篤さんのバグパイプ演奏で始まった。学長、来賓のあいさつに続いて、作家の山本一力氏の「江戸幕末の深川」と題する講演では最近上梓された「ジョン・マン」を中心に幕末の日本の海とアメリカのかかわりなどを話された。
「みんなで考える明治丸とまちづくり」と題してパネルディスカッションが行われ、その後東京海洋大学客員准教授さかなクンが写真を見せながら小笠原の生物の話とクイズをした。

日本は陸地面積では世界60位だが、排他的経済水域を含む面積では世界6位の海洋国家だ。明治8年10月に、明治丸は政府の代表団を乗せて小笠原諸島に向かい、ほぼ同時に出港したイギリスの軍艦よりも2日早く到着し、日本の領有権を主張する上で大きな貢献をした。排他的経済水域の約30%は小笠原諸島を基点としている。海洋国日本にとって小笠原の存在価値はきわめて大きいという。
(担当:田口輝子)
明治丸資料
明治丸
バグパイプ
サカナクン
第5回 横浜山手 2011年4月23日(土) 参加者4名
3月23日に青山墓地の探訪を予定していた第5回の探訪の会は、東日本大震災とその後の計画停電、交通事情の不安定なことなどで中止した。今回は雨と強風に悩まされたが、時々の晴れ間に見る新緑が美しい横浜の山手の街の探訪となった。

「外交官の家」:重要文化財。設計者のJ.M.ガーディナー(1857−1925)は少年時代スコットランドで教育を受けたスコッツ系米人で、アメリカ聖公会派遣の宣教師として1880年に来日、立教学校(立教学院の前身)の校長も努めた。地震学の父ミルンと親交があった。残念なことに地震による修復工事のため休館中。美しい花壇と外観のみ見学した。
近代下水道記念碑:日本初の公園である山手公園に上る桜道の階段下にこの碑があり、碑の左側には雨水を流すために房州石を船底型に組み合わせた排水溝、ブラフ溝が100年以上を経た今日においても使われているのを見ることができる。

キリンビール発祥の碑:キリン公園にある。1870年スコッツ系ノルウエイ人で米に帰化したウイリアム・コープランドが天沼の泉水を使ってビール醸造を初め、そのスプリング・バリー・ブルーアリーを1885年にグラヴァーが買い取ってキリンビールとした。
外国人墓地:面積5,600坪(約18,500u)、墓石2,500基。40余カ国、4400余体が眠る。まず併設されている資料館で、埋葬されている人々の業績を紹介する資料を見た。
外国人鉄道技術者の墓:北政巳氏の研究によると日本の鉄道創世記には、多くのスコッツが、グラスゴウ郊外の蒸気機関車の生産拠点であったスプリングバーンから来日し、日本の鉄道発展の基礎作りに大きな貢献をしたという。 これら外国人技術者で日本で客死した者はこの墓地に眠っており、彼らの墓は旧国鉄により鉄道記念物または準鉄道記念物に指定されている。
ほかに以下のスコッツの墓所にも花をささげた。
マーテイン
Marshall Martin(1862-1949)
山下公園生みの親。(探訪II-3参照)
リチャードソン
Charles Lenox Richardson(1834-62)
上海から観光に来て、生麦事件に遭遇。
ラムゼー
George E.O.Ramsey(1839-85)
三菱の船長、三菱商船学校(後の東京商船大学)の教官、農商務省官船局試験官として船員養成に功績。
ジェラール水屋敷地下貯水槽 フランス人のアルフレッド・ジェラールは谷戸の湧水を横浜港の船舶に売却していた。その貯水槽が元町公園に残っている。
また元町公園にもブラフ溝が現存しており、その記念碑がある。
(担当:田口輝子)
外交官の家
近代下水道記念碑
麒麟麦酒開源記念碑
外人墓地資料館
外国人鉄道技術者の墓
マーティン家の墓
リチャードソンの墓
ラムゼイの墓
ジェラール水屋敷地跡
ブラフ溝記念碑
第4回 浅草凌雲閣記念碑と江戸東京博物館 2011年2月26日(土) 参加者6名
浅草雷門の大提灯の下で待ち合わせ、まず観音様にお参りしてから凌雲閣の記念碑を訪ねる。
浅草寺の庭を抜けロック街へ。住所は台東区浅草2−14−5になるが、交差点のどこに碑が有るかときょろきょろしてやっと見つけたのはパチンコ屋の前に、喫茶店の行燈看板くらいの大きさ(小ささ?) の銅版だった。パチンコのにぎやかなポスターに並んで、「東京の3大タワー」というポスターがあり、スカイツリー634m、東京タワー333mと並んで凌雲閣52mを並べてあるのがおかしかった。

凌雲鶴は“1890(明23)にウイリアム・K・バルトンの設計によって建てられた。八角形12階の建物で1階から10階までが煉瓦積、11・12階が木造で、屋根には風見のついた避雷針が乗り、8階までは日本最初の電動エレベーターを設置、各階には凡そ50の店が軒を連ねた。最上階の12階には30倍の望遠鏡が設置され、品川沖の海、遠くは筑波、秩父の山々が望めた。観覧料は大人8銭(現在の約700円)子供4銭であったが、高所から東京を一望しようという人が押し寄せ、東京随一の観光名所となった。開業から33年の1923(大正12)の関東大震災で消滅、その幕を閉じた。(ミニガイドより)

浅草から徒歩で両国の江戸東京博物館へ。明治の人なら難なく歩いた2キロの距離がずいぶん遠かった。ここには凌雲閣の10分の1の模型が展示されている。また凌雲閣の煉瓦の展示もあった。ほかにコンドル設計の鹿鳴館のジオラマ、ウオートルズ設計の銀座煉瓦街(朝野新聞前、現在の銀座4丁目交差点の辺り)のジオラマ、ビル解体中に発見された銀座煉瓦街遺構などを見学した。
(担当:田口輝子)
 
 
 
 
第3回 横浜関内(ブラントン関連を中心に) 2011年1月29日(土) 参加者9名
関内駅から徒歩で2-3分の所に、吉田橋はあった。日本で二番目に古い鉄製の橋である。橋の両サイドが、斜めの格子になっているのが、とても印象的なデザインであった。当時、橋の下は水が流れていたと想われるが、現在、そこは道路になっていた。

次に見学したのは、横浜公園である。其処に日本庭園があり、我々は水琴窟を見学した。穴に耳を近づけてみた。かすかに水の音がした様に思う。誰かが.すぐ側にある竹筒を見つけた。「何に使うのだろう?」「こうやるんじゃないの?」誰かが、竹筒を水琴窟の穴の上に置き、竹筒の上の方に耳を当てた。「聞こえる。聞こえる。」私もやってみた。なるほど、さっきより鮮明な音が、竹筒を通してはっきりと聞こえてきた。まるで、琴の音の様に澄んだ音色であった。この公園の日本大通り側の、門のそばにブラントンの胸像はあった。若かりし頃の彼の胸像は、海の方向に目を向けて、自らが設計したり築いたりした物の行く末を見守ってでも居るかのようである。我々は、横浜で彼が活躍していた頃の時代へと、タイムスリップをしながら、探訪を続けた。

・・・・日本大通り・電信創業記念碑・初期の下水管・プロテスタント最古の「横浜海岸教会」・開港広場・横浜開港記念館及びブナの木(玉楠の木)・山下公園・「象の鼻」埠頭と大桟橋・・・・途中、県民ホールでのおいしい昼食。
現在の横浜の様子を、あのブラントンの胸像は、どんな思いで見つめているのだろう?と言う思いを持ちながら.「象の鼻」埠頭に着いた。

冬の午後の柔らかい陽射しを受けて、港の周りには、沢山のビルが建ち並んでいる。カモメが、ゆっくりと飛んでいる。向こうの方には、赤レンガ倉庫も見える。土曜日なので、散策の人も多い。我々の見学は、ここで解散となった。
今日は、学ぶことの多い、一日であった。この会に参加をしたことを、感謝申し上げたい。
(担当:なかい百合子)
吉田橋
横浜公園
開港広場
第2回 東京都水道歴史館(本郷)・国立科学博物館(上野) 2010年11月27日(土) 参加者5名
当日は、東京都水道歴史館ロビーに11:00に集合。
江戸の上水・東京水道の歴史のビデオ説明と、水道歴史館の説明員より展示品を通じ1時間強の説明。1590年、徳川家康の江戸入府にあたり小石川上水(神田上水)が最初に作られた。これが日本最初の水道事業である。その後江戸の街が大きくなり1700年代には、100万人以上の人口となる。当時としてはロンドン・パリをしのぐ人口であった。幕府は玉川上水を玉川庄右衛門と玉川清右衛門兄弟に命じ完成させた。現在、この水道網は(木樋からできている)、旧都庁舎跡や東京駅北口整備時等に発掘されている。配水方法は、ますやせきを用いて、位置の「高い方から低い方へ」という方法で、まだポンプは使われてない。何故この様に江戸の町に水道網が発達したか。一つには、江戸の町が元来湿地帯の上にあり、井戸を掘ることができなかったという事情がある。つまり、東京の前身である江戸という都市は、小石川上水(神田上水)や玉川上水が整備されることにより、出来上がったと考えても過言はない。

この様な水道網は、幕末から明治初期まで東京で利用されていたが、明治初期にコレラが流行する。これを機会にヨーロパより安全な水の確保のために衛生的な有圧式の「近代水道」の方式を導入せざるを得なかった。
その際、貢献したのがH. S. Palmar (1838〜1893)と、スコットランド人のW. K. Burton(1856〜1899)である。
W. K. Burtonはコレラの対処に苦慮した明治政府より東京大学の教授に任命され、衛生工学を講じ都市の水道システムに貢献した。
それ故、今、都市水道は、良質で、安価な、豊富な水を私たちに供給し、都市発展のために役立っている。
江戸時代末期の上水配管網・発掘された木樋・江戸の給水方法の展示も見学し現在の漏水対策装置・高度浄水処理システム・水道本管・馬水槽等も見学できた。日本を一歩外に出ると、コップ一杯の水にお金を払わなければならない。江戸の昔、先人が、地下に木樋を通して飲み水を運んだ事を考えると生活の中の飲み水の大切さをひしひしと感じさせられる。

昼食後、歩いて国立科学博物館(上野)へ
地球館2Fで工部大学校(東大工学部の前身)の資料見学。「日本の科学と技術の歩み」コーナーに、我が国の科学・技術のルーツとしての「工部大学校ICE」の資料(卒業論文、工学寮教科書、講義録、写真、パネル等)が常時展示されている。前回東大で見学・学習した復習として興味深い。

蘇言機(銀箔蓄音機)(重要文化財)
ユーイングSir James Alfred Ewing(1855-1935)が明11(1878)東大理学部教授として来着した際、エデインバラの J. Milne & Son Makersに製作させ持参したもの。その年、日本で初めて東大理学部の実験室で、本機を使って録音、再生実験を行った。この実験日11月16日が録音文化の日とされた。

日本館1F南翼ではミルン地震計とユーイングの地震計を見る。

ミルン地震計(重要文化財)
ICEと帝大で地質学・鉱山学を教えたミルンJohn Milne(1850−1913)が離日直前(1894)に発明した水平振子地震計で、本機自体は英国から輸入され、東大本郷の地震観測所で使用されていたもの。このミルン地震計が、それまで開発された地震計の中で最も進化したもので、彼が構築した世界的な地震観測ネットワークで広く用いられ、スコットの南極探検でも活躍した。

ユーイング地震計
1880年東大理学部のユーイングSir James Alfred Ewing(1855-1935)が、ICEトーマス・グレイ教授と共同開発した初期の上下動地震計。煤をつけた円盤に針の先で振動を記録した。

稲永さんより詳細な説明受け、日本の基礎工学の変遷を見学することができた。午後3時解散。
(担当:村井泰礼)
水道歴史館ーバルトンのパネルの前で
黄葉の上野公園
工学寮カリキュラム
第1回 「工部大学校」関連―虎ノ門及び東京大学本郷校舎 2010年11月6日(土) 参加者9名
当初は1週間前の10月30日に予定されていたが台風の襲来が予想されたためこの日に延期となった。10時半、快晴の霞が関の地下鉄駅前に集合。すぐ近くの虎の門の文部科学省広場内にある「工部大学校跡地記念碑」を見る。

日本の近代化のために明治6年に時代の政府によりこの虎ノ門の地に設立され、明治19年に東京大学と合併するまで日本で初の高等工業教育機関として多くのエンジニアを輩出した工部大学校(ICE)は初代校長のヘンリー・ダイアーを始めほとんどの教授陣がスコットランド人であった。工部大学校は2階建て赤レンガ造りの立派な建築物であったが、関東大震災で崩壊した。明治期に丸の内の「三菱煉瓦街」をジョサイア・コンドルと共に設計した一期生の曽根達蔵らのOBが工部大学校がこの地にあったことを記念するために昭和14年に建立したものである。

地下鉄で東京大学本郷キャンパスヘ向かう。赤門から入ってキャンパス内をめぐり、工部大学校二代目校長エドワード・ダイヴァースの銅像や三四郎池を見てから安田講堂近くの学生食堂で昼食をとる。
午後1時、東京大学建築科に所蔵されている工部大学校に関する資料を見るため工学一号館に行く。休講日にもかかわらず登校された大学院生で建築史専攻の角田真弓さんに説明していただく。説明に先立ち、工学部列品館内の応接室にある工部大学校初代校長ヘンリー・ダイアーの胸像を特別に見せていただいた。

この胸像は1998年に「大英国展」が日本で開催された折に英国より東京大学ヘ寄贈されたとのこと。ついで工学一号館内の会議室で「工部大学校」の写真を中心にいろいろの資料を見せていただく。そのなかで最近学内で発見されたという当時の工部大学校の所蔵印のある和建築の「雛形集」や建築学教師のコンドルが英国から持ってきたものと思われる金槌や測定器具が興味をひいた。いずれ公表したいとのこと。角田さんと別れ、構内にあるジョサイア・コンドルなどの銅像を見て本郷キャンパスを後にする。

弥生門から「異人坂」、不忍通りを経て根津の岩崎邸に向かう。岩崎邸は三菱財閥の本邸であるが洋館はコンドルの設計によるものである。テレビの「龍馬伝」での岩崎弥太郎の登場の影響もあってか大変な賑わいであった。洋館の内部を見学し、和館の茶店でコーヒなど味わってから解散した。
(担当:安久津 赳)
工部大学校跡地記念碑
二代目校長ダイヴァース銅像
ジョサイア・コンドル銅像
東京大学工学一号館前にて

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