◆東京・横浜に“スコットランド”を探る会 第1シリーズ◆
第1回 「工部大学校跡地記念碑」虎ノ門
第2回 青山墓地
第3回 国立科学博物館と旧岩崎邸
第4回 江戸東京博物館 常設展示室5階
第5回 築地 - 旧明石町居留地界隈
第6回 横浜@
第7回 横浜A
第8回 横浜B
第9回 東京@
第10回 東京A
第10回 東京A 2010年6月17日(木) 参加者11名
10時半、三越日本橋本店三井口集合。梅雨の晴れ間の強い日差しの中を、午後の日銀の見学の前段として日銀金融研究所の付属施設の貨幣博物館の見学に行く。日本の貨幣史を始めとして、世界の貨幣などが実物やレプリカなどおよそ4000点の資料によって分かりやすく展示されていた。日常つかっている貨幣だけに興味深いものが多く、紙幣の偽造防止技術なども説明されており、およそ1時間が短く感じられた。入り口には「3億円」の1万円札での重量と同じ紙の束も置かれてあり実際に持ってみて実感するコーナーもあった。

昼食後は当日の主目的である、工部大学校第1回卒業生の建築家の辰野金吾の代表作品の1つで国の重要文化財にも指定されている「日銀本店旧館」の見学。日銀の設立初期には大蔵省のお雇い外国人としてアバディーン生まれのA・A・シャンドが日銀など銀行実務の指導、検査に当たっており「日本の近代銀行制度の父」と仰がれている。

13時半、見学コースの集合場所で修学旅行と思われる生徒の一団等などとともに、案内担当の女性から見学する上での注意を聞く。一般の見学者は10分あまりのビデオで日銀の歴史を見る。ついで1階の旧営業場(銀行窓口)から見学を始める。地下1階の2004年まで108年間使われた米国製の地下金庫を見る。扉の厚さは90Cm、重さは25トン。この金庫は関東大震災でもびくともしなかったとのこと。本物こそ見られなかったが金の延べ板や1万円札の保管状況を見る。

2階に上がって廊下の壁に展示されている、初代の吉原重俊、四代岩崎弥乃助、七代高橋是清、十六代渋澤敬三など歴代総裁の肖像画を見て回る。資料展示室で昔の行員の制服など、また十五代の結城豊太郎総裁が総裁室として使っていた旧館のシンボルでもあるドームの下の部屋を中から見た。また、当時総裁が実際に使っていた机や椅子が展示されていた。最後に中庭で開設当初馬車で日銀に来たお客の馬のために作られた水飲み場など見て、記念写真を撮る。

丸の内の三菱一号館へ行く途中で人材派遣会社「パソナ」の呉服橋本社へ立ち寄った。
ここでは田口さんの同級生(茂又さん)がプロジェクトリーダーとして行っている、オフィスに水田や花畑を作り、外壁にバラや落葉樹を植える「アーバンファーム」の活動を30分以上にわたり見せて戴いた。

最後にこれも辰野金吾の代表作であり、現在建設当時の姿に復元工事中の東京駅を左に見ながら丸の内に向かい、今年4月に復元して美術館としてオープンした日本初のオフィスビル街「三菱煉瓦街」の一号館の歴史資料館を見学した。建物の模型や三菱の創始者である岩崎家や関係者に関する資料や当時の調度品が展示されており、この資料館は無料でなおかつ午後7時まで公開されていることもあり、また東京駅に近いという立地条件からこれから多くの見学者が訪れるものと思われる。自由見学後、解散した。

「三菱煉瓦街」はジョサイア・コンドルと弟子で工部大学校一期生で辰野と同期の曽根達蔵の二人の設計、施工によるものであり、1894年竣工の一号館が40年ぶりにほぼオリジナルどおりに復元したものである。
(安久津 赳)
日銀本社旧館
馬の水飲み
三菱1号館
東京横浜にスコットランドを探訪する会は当初計画した目的地をほとんどすべて探訪しましたので、この6月の会をもって終了させていただきます。たくさんの方からご協力を頂きました。有難うございました。
第9回 東京@ 2010年5月27日(木) 参加者8名
10時半明治学院大学正門前集合。ヘボン(曾祖父が米国に渡ったスコッツ)は明治学院の礎を築いたひとり。お近くにお住まいのJSS長老の岸さんが歴史資料館見学に参加された。
歴史資料館は記念館の2階。記念館の前の花壇に「アンネのバラ」が数輪咲いていた。ここ出身の島崎藤村が『桜の実の熟する時』の中で「新しく構内にできた赤煉瓦の建物は、……」と書いた建物。当時は神学部校舎兼図書館。2階には本邦初の和英辞書『和英語林集成』の初版本(1867)、へボン家の紋章や島崎藤村『夜明け前』の原稿など、ゆかりの資料が多く陳列されている。
隣のウィリアム・インブリー博士(祖父がスコットランドから米国に移住した)の居館インブリー館(国指定重要文化財)およびチャペルは外観のみ。一時間ほど見て、都営地下鉄三田線で白金高輪から水道橋に向かう。岸さんはわざわざ白金高輪駅まで来られ、われわれを見送られる。感謝多々。

昼食の後、水道橋の東京都水道歴史館を見学。ビデオ案内を見てから、2階に案内されて江戸時代の上水(江戸時代は水道のこと上水といった)、1階に下りて明治以降の水道について1時間ほどのガイド飯島清美さんの説明。徳川家康が江戸入府に当たり家臣に作らせた小石川上水(後の神田上水)が江戸上水の始まりとか。その後玉川上水など5上水が加えられ、江戸の人々の生活を支えてきた(幕府天領の多い武蔵野の新田の用水への配慮からか、八代将軍吉宗のころ4上水が廃止)。さまざまな大きさや形の木樋が継ぎ手により連結され、上水井戸へと給水された。時代劇でよく見る長屋の井戸端風景は、地下水を汲みあげていたのではなく、上水を汲んでいたのだと認識を改める。1階では、コレラ流行のあと、1888年(明21)バルトンが東京市区改正委員会の調査主任として水道改良計画を作成、10年後給水が開始されたこと。見学後、裏にあるバラ園でしばし憩う。

次に白山に出て、小石川植物園に入り、「メンデルのブドウ」の木、「ニュートンのリンゴ」の木を見る。スコットランドとの関わりは、スコットランド生まれの園芸学者・植物採集家ロバート・フォーチュンがここを訪れたのではないかということ、指紋研究で知られるスコッツ、ヘンリー・フォールズ等が建立した築地訓盲院(1880、明13)は薬草試植園に移ったが、恐らく植物園の南境にあったものと思われることである。
(山田 修)
明治学院歴史記念館
水道歴史館
水道歴史館
小石川植物園
第8回 横浜B 2010年4月23日(木) 参加者9名
石川町駅南口に午前10時に集合、一行は駅前から始まる坂道を登って最初の見学場所であるイタリア山庭園とそれに隣接するブラフ18番館と外交官の家に向う。庭園は明治期(13-19の6年間)のイタリア領事館跡地に1991年完成した。ブラフ18番館は、大正末期に建てられた外国人住宅で、戦後山手カトリック教会司祭館として使用され、移築された。

外交官の家は、明治43(1910)年に渋谷南平台に建てられた外交官・内田(うちだ)定槌(さだつち)(NY総領事、トルコ大使などを歴任)の私邸で移築後平成9年公開された。国の重要文化財。アメリカン・ビクトリア様式の木造二階建。原設計者は、セントルイス生まれのスコッツ系米人のジェームズ・マクドナルド・ガーディナー(1857-1925)。なお、ブラフ(Bluff)とは絶壁のことでクリフ(Cliff)は海に面した絶壁のこと。

次の山手公園に向う途中の階段(公園の西端、桜道側入口)傍らに、ブラントンの下水道事業を顕彰する近代下水道記念碑を見る。上がり終えてしばらく歩くとテニス発祥記念館に到着する。明治11(1878)年、山手公園で日本初のローンテニスが行なわれ、初のテニスクラブがつくられた。記念館には使われていたラケットが数多く展示されている。付近では大きく成長したヒマラヤスギを見ることができる。

その後、一旦戻って、フェリス女学院大学、短大・高・中の学舎を見ながら歩く。途中立ち寄ったブラッフ・クリニックには、日本考古学の草分けであり、アイヌ研究で知られる医師マンロー博士が勤務した由縁の銘板が保管されている旨説明を受けるも、梱包を開いて元の状態に戻すのには時間がかかるので、今回見学はパス。

元町公園を過ぎるとお待たせの山手外国人墓地。ブラック一家(首長ジョン・レデイ(1827-80)は日本初の本格的日本語日刊紙「日新真事誌」を創刊、日本ジャーナリズムの父と称される。長男のヘンリー・ジェームズは「快楽亭ブラック」と称した日本初の碧い目の落語家)とチャールズ・リチャードソン(貿易商、1862年上海から観光旅行に来て生麦事件で落命)の墓は見つけて献花したが、ジョージ・ウオーコップ(工部省灯台寮書記、ブラントンの義兄)、ジョン・マクドナルド(1858-1859年、初代英国公使オルコックと共に来日)とマーシャル・マーティン(貿易商、関東大震災後の横浜復興に尽力、山下公園建設提唱者)の墓は見つけられなかった。 ここで、ランチタイム。港の見える丘公園に隣接するポートヒル横浜ホテルで一同洋食を美味しく頂く。横浜港が眼下に広がっていた。ベイブリッジの夜景は見事だろう。

ツアーを最後に飾ったのは、横浜市イギリス館(居留地防衛の為の英兵駐屯地に昭和12年に英国総領事の公邸が建てられた。横浜市指定有形文化財)と周辺のバラ園(約80種、1,800株)。英国と横浜市のシンボル・フラワーであるバラの見ごろは5月と9月なので、バラはこれから花が咲く状態だった。そして、山手111番館(東京丸ビルの建設の為に来日した米人建築家ジェイ・ヒル・モーガンが個人の邸宅として大正15(1926)年に設計建立)。近くには神奈川近代文学館と大仏次郎記念館がある。

本稿を書くにあたっては、稲永丈夫さんが探訪の為に纏められた「ミニガイド」を利用させて頂いた。また、探訪ルートは、「山手西洋館マップ」(ちらし)を石川町駅から元町・中華街まで北上するかたちで巡った。
「本郷の かねやすまでは 江戸のうち」ならぬ、桜木町駅・関内駅までは立ち寄ることがあったが、石川町駅を降りて山手を訪れたのは上京・入社以来の37年振りだった。ヒルトップには相変わらず異国風の建物が並んでいた。
(井崎 淳一郎)
外交官の家
ブラック家墓所
リチャードソンの墓
横浜市イギリス館庭園
第7回 横浜A 2011年3月25日(木)
横浜開港から150年、今回は、日本近代化に大きく貢献した二人のスコットランド人、リチャード・ヘンリー・ブラントンと、ジェイムズ・カーチス・ヘボンの足跡を巡る探訪となった。
明治5年(1872年)東京・横浜(現桜木町近)に鉄道が開業した。その発祥の地、JR根岸線桜木町駅に集合。雨が降り続き冬を思わせる寒さの中、最初の訪問地は横浜指路教会。居合わせた岡部一興氏(教会史学会理事)から当教会の歴史と建物について説明を受けた。「指路」はヘボンの母教会の愛称「Shiloh Church」(メシアの意)からきているそうだ。ヘボン夫妻は1859年に横浜に来着し、数年後居留地39番へ移住。その地にヘボン塾を開校した。ヘボン塾で勉学に励んでいた青年を中心に米人宣教師H・ミールを初代牧師として1890年献堂された。2度の移転後現在地に献堂。震災・戦災に堪えた躯体を信徒の浄財で奇跡と思える復元を図っている。お御堂の祭壇に十字架はなく、周囲の窓は普通の曇りガラスですこぶるシンプル。その分信仰に特に厚いと感じた。

次にブラントン設計の吉田橋を訪れる。当時運河で船が行き交った所は、現在は首都高速道路となり間断なく車が行き交っていた。欄干は細いX字の連続模様。140余年経てもなお、錦絵に描かれた当時の栄華を思い浮かべるに十分な存在感があった。次に同じブラントンの設計・施工の日本最初の洋式公園、横浜公園を訪れた。公園は往時の面影は殆どない。ブラントンの胸像と彼が手がけた数々の事業の説明板が公園入り口に設置されている。この説明文を読むと改めてブラントンの偉大さを実感する。横浜公園とゾウの鼻地区をダイレクトに結ぶ通りを日本大通りと言い、同じくブラントンが設計した。当初は36メートル幅の立派な道路であったが、震災・戦災にあっても殆ど同じ広さが現在も保たれており、沿道には重要な建物が並でいる。日本大通りを横にそれて日本新聞博物館裏に、グラスゴー製のガス灯、居留地跡から発掘された鋳鉄ガス管とブラントン設計のレンガ作り卵型小下水管が展示されていた。元横浜市下水道局長で新会員の安久津氏より下水道に付いて説明を受ける。

外航船の受け入れに横浜港が開港されたが貿易の拡大により防波堤を湾曲した形で延長した。その形がゾウの鼻に似ているのでその名が付いたそうだ。その直線部分の延長が現在の大桟橋のもとになる。明治政府は横浜港築港計画をブラントンに依頼し、彼の答申は採用されず、英国人パーマー案が上申され1889年着工、1896年竣工した。その後、改良が加えられ現在の大桟橋となった。 ブラントンは日本の灯台の父(在任中26基の灯台を建設)であると同時に横浜のまちづくりに多大な貢献をして1876年帰国した。帰国後は建築家として活躍、1901年(明治34年)逝去。ロンドンの南、ウエスト・ノーウッド墓地に永久の眠りについている。

遅い昼食をジャーデイン・マセソン社横浜支社のあった英1番館跡に建つ神奈川県民ホール6階のレストランで摂った後、日本文化の開眼者であるヘボン氏の居宅跡(39番館・現合同地方庁)の石碑を読み、横浜市中土木事務所前の卵形下水管を見て解散した。

スコットランド探訪の会は今回で7回になるが、探訪の地を訪れて感じることは、如何に多くのお雇い外国人や多くの宣教師等が日本の近代化に大きく貢献したのかということである。その中でイギリス人として束ねられた中で、スコットランド人たちの活躍が特に目立つ。埋もれてしまった彼らスコットランド人に、歴史の舞台に呼び戻し再び光を与え再評価することは私たちの責務と考える。過去のスコットランドの探訪の会に残念ながら参加頂けなかった方々は、是非この報告記を携えてその一部だけでも訪れることをお薦めする。それぞれの探訪先で、スコットランド人は何を考え、何を日本人へ伝えようとしたか、との思いを抱いて頂ければ探訪会を開催した意義を果たせたのだと思う。
(大石 晃士)
吉田橋
リチャード・ヘンリー・ブラントン
ヘボン旧宅跡の碑
卵型下水管
第6回 横浜@ 2010年1月28日(木) 参加者9名
1月28日、今年初めての探訪の会が行われました。
午前10時30分、JR川崎駅に集合したのは初参加の新会員を入れての9名で、最初の探訪先、東京電力「電気の史料館」へ出迎えのマイクロバスで向かいました。とても立派なビルで、ホールに掲げられたデュフィのパリ万博の壁画のレプリカ「電気の歴史に貢献した100人の科学者」の壁画に驚かされました。私達のお目当ては、工部大学校電気工学教授のエアトン(グラスゴウ大学でケルヴィン卿に師事)の指導で1886年に藤岡市助らが制作した白熱電灯用発電機でしたが、また最初の白熱灯電球の木綿フィラメントや日本最初の送電塔、最初の水力発電所の展示物などにも目を見張りました。このような発電機の発展にはスコットランド人ジェームス・ワットの力が寄与したことも印象に残りました。

二番目の探訪先は「生麦事件参考館」で、土地の浅海さんが長年にわたって収集した資料の数々を見学し、同時に約1時間に亘って浅海さんの講演ビデオに聞き入りました。1882年、横浜から馬で川崎大師見物に向かった4人の英国人が薩摩の400人からなる大名行列に行き逢い、無礼者として惨殺されたのはスコットランド人商人リチャードソンでした。この事件の賠償金を巡って薩英戦争となりましたが結果的には後年双方が友好関係を結ぶこととなり、明治維新の進展に大きく寄与したことはご承知の通りです。第三の探訪先キリン麦酒生麦工場に向かう途中、この事件の現場に立つ記念碑をみてその昔に思いを馳せたのでした。

最後の訪問先キリン麦酒は、1870年アメリカ人コープランドが横浜山手に創立したビール製造業をご存知グラバーが譲り受けてジャパン・ブリュワリーとし、その後キリン麦酒に発展したものです。よく整った見学コースを案内されて、あらためてビール醸造と製品化の諸々の過程を学び、最後に出来立ての「スタウト黒ビール」や「一番搾りビール」をご馳走になり、のどを潤しながら次回の横浜での探訪企画を話し合ってご機嫌で散会しました。
(梅津昌彦)
電気の歴史に貢献し……
白熱電灯用発電機
生麦事件碑
生麦事件碑2
第5回 築地 - 旧明石町居留地界隈 2009年12月3日(木) 参加者8名
今回は冷たい雨の中の「スコットランドを探訪」となった。
築地の聖路加病院の周囲、昔の明石町外国人居留地のあとを中心に探訪した。
印象的だったことは多くの大学、とくにミッション系の学校発祥の碑が多くあったことで、近代教育がこの居留地から生まれたことがうかがえた。(慶応義塾、女子聖学院、立教学院、女子学院、工学院、明治学院など。)明治学院の創設にはスコットランド長老派教会が深く関与し、初代総長にはヘボンJames Curtis Hepburn(1815-1911)が就任、ヘンリー・フォールズ Henry Faulds (1843-1930)も教鞭をとっていた。

また、聖路加病院のそばに蘭学事始めの碑、シーボルトの胸像があり、日本の近代医学もここに発祥したことがうかがわれる。ヘンリー・フォールズが創設した聖路加病院前身ともいわれる健康社の跡は碑もなく、民家と低層のビルに囲まれた何でもない街の一角になっていた。
ただ、聖路加ガーデンズのフォールズの旧宅跡には指紋研究発祥の地の碑が建てられていて、フォールズの業績を顕彰している。

現在の筑波大学付属盲学校の前身である訓盲院創建にもフォールズは参加している。建物はジョサイア・コンドルの設計になったものだそうだが、こちらも名残ひとつなく、商業ビルの並んだ変哲もないビジネス街になっている。ただこちらは筑波大学が顕彰碑を建てる予定だそうだ。

勝鬨橋そばの海軍経理学校の碑をみたついでにスコットランドには関係なかったけれど、雨宿りをかねて勝鬨橋の資料館を見学する。築地場外市場を通り抜けて水神社そばの海軍発祥の地の碑をみる。
明治政府は明治6年に兵学寮に英国海軍から34名の共感団を招き、将校の育成にあたらせた。その団長のアーチボルト・ルシアス・ダグラスArchibald Lucias Douglas(1842-1913)はカナダ生まれのスコッツである。

このほかに電信発祥の地の碑、アメリカ公使館跡の碑などもみた。築地明石町が日本の近代文明発祥の地であることは疑いもないが、すべて碑が立つのみで、往時の面影をしのばせるものは何もない。すべて震災と戦災と、そして土地騰貴が破壊してしまったのだろう。
第4回 江戸東京博物館 常設展示室5階 2009年10月29日(木) 参加者10名
今回はボランティアのガイドをお願いした。当初はバルトン、ウォートルスの業績を中心に東京の部分のみのガイドをお願いしたのだが、歯切れのよい江戸弁の名調子の解説にひかれて予定を変更し、昼食をはさんで午後は6階の江戸の展示も観覧した。スコットランドには関係はなかったがこちらの展示も興味深く、江戸、東京の歴史を堪能した。午前とは別のガイドさんだったが、こちらも説明が行き届き、質問をするとすぐに回答が返ってくる勉強ぶりには感心させられた。

1「銀座煉瓦街」遺構とジオラマ
明5(1872)の大火の後、欧米風耐火性煉瓦建築をベースにした首都再建が図られ、アイリッシュ系スコッツの土木技師トーマス・ウオートルス(Thomas James Waters 1842−98)が設計を委嘱された。
ジョージア様式の煉瓦造り三階建、二階建、平屋建から成り階上にはバルコニーを配した異国情緒たっぷりの建物が並んだ。現在の和光の場所にあった朝野新聞の実物大模型、当時の建物の壁の一部、発掘された石畳の遺構などの展示品が当時の面影を見せている。銀座煉瓦街の大きなジオラマでは、朝野新聞社投石事件や、人力車夫のけんかなど、当時の新聞記事となった出来事が紹介され、ガス燈の点る夜の街並みも再現され、いつまで見ていても飽きなかった。

2「凌雲閣(通称浅草十二階)」10分の1模型
「日本近代水道の父」と呼ばれるウイリアム・K・バルトン(William Kinninmond Burton 1856−99)の設計監督。日本初の高層建築であり、日本ではじめてエレベーターが設置された建物としても知られている。明治東京を代表する名所の一つだった。大正12年(1923)の関東大震災で8階以上が破損、危険な為爆破処理された。

このほかにジョサイア・コンドル設計のニコライ堂、鹿鳴館の模型は、屋根の一部が開いて中の礼拝や舞踏会の様子が再現されるのを見ることができるようになっていて楽しかった。
 
第3回 国立科学博物館と旧岩崎邸 2009年7月16日(木) 参加者10名
1 国立科学博物館(上野) 日本館 1階
至急間には、科学と技術の歩み「近代化にむけた人材育成」のコーナーに工部大学校や当時の科学教育に関する資料が展示されていて、ダイバーの写真や、英文で書かれた鉱山学の卒業論文などを見ることができた。

科学博物館の常設展示は、65歳以上は無料。スコットランドが日本の近代化に大きく貢献したことが実物をみることで改めて実感できた。
他にも興味深い展示品は多く、一日中見ても見飽きないようだったが、特別展の「黄金のシカン」はあきらめて、炎天下を徒歩で岩崎邸に向かう。

2 旧岩崎邸
三菱の創業者岩崎弥太郎の長男久弥の別邸。昭22国有化。GHQ接収、最高裁司法研修所を経て、東京都が平13に公開。明29ジョサイア・コンドルの設計。グラヴァーの長男・富三郎が学習院生の時、寄宿していた。面積は創建当時の半分ほどになってしまっているが、内装に往時の豪華さがうかがえる。

ここで解散。元気な人たちは再び科博の「シカン展」へ。仕事に戻る人もあったが、一部は岩崎邸の敷地の裏側にある三菱の資料館へ行った。これは三菱経済研究所のあるビルの一角にあり、岩崎邸の住所は台東区だがこちらは文京区湯島になる。岩崎邸が参観者が引きも切らないのに対し資料館は静かで冷房もよく効いていて、ゆっくりと資料をみることができた。創業以来の三菱120年の歴史を動画で見ることができ、また資料の中にはグラバーとの契約書や、グラバーの給与の領収書などJSSにとっても興味深い展示もあった。
第2回 青山墓地 2009年5月28日(金) 参加者8名
この日は、この後に計画されていた「スコットランドを語る会」講師の稲永丈夫さんと共に青山墓地を探訪ました。

あいにくの雨降りでしたが、以下の人たちの墓前に用意してきた花をにささげて日本の近代化に尽くした人たちの冥福を祈りました。

彼らはすべてがスコティッシュではありませんが、稲永さんはさまざまな理由でスコットランドに関係があったという仮説を立て、明治維新と日本の近代化はスコティシュとスコットランドなくしては成立しなかったという持論を展開されました。外人墓地には関係機関の立てた立派な顕彰碑もあれば、小さな墓石が傾いている墓もあり、もののあわれを感じさせられました。

事跡についての詳細な資料も作られましたので、興味のある方はJSS田口までお問い合わせください。

William Henry Stone(1837-1917)
William Kinninmond Burton(1856−99)
Edwin Dun(1848-1931)
Henry Spencer Palmer(1838-93)
Charles Dickinson West(1847-1908)
Guido Hermann Fridolin Verbeck(1830-98)
Francis Brinkley(1841-1912)
Jack Ronald Brinkley(1887-1964)
W H Stone
F Brinkley
第1回 「工部大学校跡地記念碑」虎ノ門 2009年4月23日(木) 参加者13名
この碑は近年再開発を終えた文部科学省広場にある。碑文によると、江戸城の外濠に面した旧延岡藩邸の12,000坪の敷地に、ルネッサンス様式の2階建赤レンガ造りの堂々たる大校舎が辺りを睥睨していた。
明治6年に開校。明治19年帝国大学と合併し、帝国大学工科大学(東大工学部の前身)となるまで僅か13年間に、総勢211名の卒業生を世に送り出し、日本の近代化(工業化)に多大の貢献をした。

見学場所:東京大学本郷キャンパス 工学2号館機械学科図書館。
司書の方から、工部大学校の電気学教師だったエアトン(William Edward Ayrton1847-1908)のリリーフや機械学教師ウエスト(CharlesDickinsonWest1847-1908)の授業日誌、卒業写真、教科書等沢山の資料を見せてもらった。
カート一杯の資料を準備し、説明までしてくださった親切には頭の下がる思いだった。そこから工学11号館へ向かう途中の広場で、ウエストとコンドル(Josiah Conder 1852-1920 建築学)の銅像に敬意を表しカメラを向けた。
工学11号館に入って直ぐのホールの上部の壁面に工科大学の校札がはめ込まれており、金文字が昔の輝きを保っていた。近くにある三好晋六郎(1857-1910)の銅像を見学。彼は、工部大学校を終えてグラスゴウ大学に留学、造船学を修めて帰国後直ちに工科大学の教授になった(その後私学工学院大学の創立に参加、初代総長となった)。
工学1号館の建築学図書館。ここで建築史を専攻する研究員の方から、貴重な工部大学校の古い写真集(有名な浅草江崎写真館撮影)を見せてもらい、薀蓄のある詳しい説明を受けられたのは僥倖であった。

最後に、広報センターで東大の歴史を概観し、散会した。今回は主に工部大学校を巡るスコットランド探訪であったが、近代日本の黎明にスコットランドがいかに深く関わったかを今一度想起する良い機会だった。また極めて貴重な資料を直接拝見する機会をえたことも望外の幸せだった。
工部大学校址碑
三好晋六郎像
三四郎池にて
Ayrtonのリレーフ
ウエスト像
工科大学

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