スコットランドを語る会 第110回

発表者:高橋愛朗
テーマ:「高橋愛光とEdinburgh」

本日はScotlandへの恩返しの一環として「日本スコットランド協会」を設立した私の亡き父 高橋愛光とEdinburgh と題してお話しをさせて頂きます。尚、この内容は13年前の「スコットランドを語る会」にてお話ししたものと同様です。

高橋愛光はOld Parrを日本においてDe Luxe Scotch Whiskyの最高峰に育てました。Old Parrは明治の元勲岩倉具視が欧米視察旅行の際、お土産として英国から持ち帰ったと言われています。それ以来、日本政府の高官の多くがOld Parrの愛飲者となり、田中角栄元首相は特に有名で、元旦の御屠蘇にもOld Parrが用いられたのは業界では有名な話です。
父はOld Parrを通じてScotlandを知ったわけですが、初めてScotlandを訪問したのは、1970年(昭和45年)の9月です。当時、父は神戸にありました輸出入会社に勤めており海外への輸出商品の船積手配を担当する部署の責任者でした。何故、輸出担当責任者がScotlandを訪問したのか?
1970年は大阪にて万博博覧会が開催された年です。その当時はまだScotch Whiskyは輸入枠によって輸入制限を受けており、総輸入量は約30万ケースでした。その輸入の大半はJohnnie Walkerに集中しており、Old Parrは年間、6000ケース程度でした。その様な中、万博用には特別輸入枠が設定され、父の勤めていた会社はOld Parrの日本に於けるサブ販売代理店でしたが、通常の4分の1サイズ瓶を1,000円にて販売する計画を立てました。当初販売予定は1000ケース(4万8千本)でしたが、売上は好調で結果、万博期間中に3000ケースを販売しました。大成功となった4分の1サイズの発案者は輸入洋酒業界での実力者でした西岡一郎氏ですが、その西岡氏が父をOld Parrの新たな担当者として急遽指名。指名理由は父が神戸2中の後輩と分かったからだそうです。西岡氏のこの指名がなければ父とScotlandの繋がりは無かったかもしれません。1970年9月末、父は大阪万博の販売報告及び日本におけるScotch Whiskyの将来性を討議する為にEdinburghを訪問する事になりました。この訪問は父にとって初めての海外旅行でした。数日間Londonで過ごした後、フライング・スコッツマンにてEdinburghのウエーバリー駅を目指しました。
当時父は「飲めない:食べられない:喋れない」という海外旅行には不適格な人物でした。「飲めない」とは:Scotch Whiskyどころかアルコールは全然駄目で、医者に「少しはお酒を飲むように!」と勧められ、漸くビールをコップ半分くらいは飲めるようになった程度でした。「食べられない」とは:洋食が苦手で、薄味で少量ずつ多品種を食べるのが好みでした。「喋れない」:当時は英語も駄目でした。
その様な状況下、父はEdinburghで大歓迎を受け、常にOld Parrでの乾杯:有名レストランでの豪華食事会の連続と本人にとっては苦痛の連続だったそうです。会議は無事に終了。その際の内容が高く評価され、後にOld Parrの日本での販売を全面的に任され、総代理店となるオールドパー株式会社を1973年(昭和48年)10月に設立することになります。3重苦でのEdinburgh滞在でしたが、ナショナルパーク内の池に浮かんでいる沢山の水鳥、のんびり草を食んでる羊、そして田園風景に心温めてもらったようです。夜空に浮かびあがるEdinburgh城の峻烈な姿は父をして「スコットランドは第二の故郷」と供述させるようになります。Old Parrの好調な販売に伴い、父はScotlandへの恩返しを考えます。日本に於いては1985年(昭和60年)に日本スコットランド協会を設立しました。
設立目的はご存じの通りです。同時期に、より多くの方々にScotlandを訪問してもらいたい。との思いからEdinburghに旅行代理店Jascot(Japan Scotlandの略)Travel社を設立。そして、日本の食文化を紹介する為にEdinburghに日本レストランAYEを開店(1985年5月開店~1988年3月閉店)させました。私はこのJascot Travelの立上げとレストランAYEの開店・運営に携わりました。Jascot TravelはEdinburghに長期滞在中の日本人を責任者として、現地の旅行代理店経験者を採用し、スムーズに設立出来ました。
次に、レストランAYEに関してですが、こちらは本当に大変でした。レストランの物件探しは困難の連続でした。最終的に既存のレストランを買収し日本レストランに改装しました。レストランの場所は、80 Queen Street。Princes Streetからは、George Streetを挟んで2本目。West Endの角地と最高の立地条件でした。その後は急ピッチで開店へ向けての準備に追われました。この頃から、レストランの責任者は当初予定していた方ではなく、私がレストランの開店・運営の責任者となってしまいました。当時私は28歳で何も分からない状態での飲食店の開店・それも海外での開店でしたので全ての分野でそれぞれの専門職の方々にお世話になり準備は進められました。1階には寿司カウンター:天ぷらカウンター:和室:一般席と厨房を配置。そして、地下1階は鉄板カウンターと一般席:保管庫を配置することになりました。 日本人スタッフ20名の労働許可証もなんとか取得でき、盛大なオープニングパーティーをおこない、その際には日本スコットランド協会の関係者も日本からご参加頂きました。新鮮な魚介類を仕入れるのも大変でしたが最終的には地元の漁師さんからもいろいろな食材を仕入れることができました。Scotlandで「うに」は子供達がサッカーボール代わりに遊ぶもので、「日本人はこれを食べるのか?」と驚いていました。レストランは「愛」と名付けられ、アルファベット表記は「AYE」と決定しました。愛の漢字は日本に於いてもOld Parr社の関連飲食店に付けられていました。A・Y・E はスコットランド独特の表記であり「はい」と言う意味合いと知り決定されました。レストラン愛は開店直後から多くのマスコミに紹介され、その評判は瞬く間に広まりました。その年刊行のGood Food Guide誌で最高得点を取得(コピーをご参照下さい)ミシュラン・ガイドブックでもまだ1年もたたないのに、巻末で素晴らしい日本レストランが出来たと紹介されていたのを覚えています。

当時Scotlandに進出していた日本の企業はNEC:三菱電機:信越半導体:大和スポーツくらいで日本人会は100名程で組織されていました。本日はEdinburgh Festivalのパレードに御神輿を担ぎ、花笠音頭を披露した際の写真を持参致しました。

1枚目の写真の左端に父が写っています。その当時、英国では金融界ビッグバンが行われ企業買収が頻繁になりOld Parrブランドを所有していましたDCLも、規模ではDCLよりも小さなGUINESS社に買収されてしまいました。その結果、日本の オールドパー㈱にも代理店契約を解消する旨の告知書が届きましたので、レストランAYEを売却して私は帰国しました。

(文:高橋愛朗)