◆スコットランドとスクエアダンス◆
スコットランドとスクエアダンス
スコットランドはスクエアダンスの元祖の一つであったというお話をZoomで紹介することになりました。
その日は北京冬季オリンピック2022の閉会式の前日で、日本の女子カーリングチームが大活躍でしたので、そこから話を起こすことにしました。カーリングはスコットランド発祥で16世紀まで遡ることができるのだそうです。今では花崗岩でできたストーンを使用していますが、昔は川から拾ってきた石を使っていたそうです。勝ったチームが負けたチームに試合のあと一杯おごるというカーリング精神があるそうですが、これはゲームの勝ち負けより、一緒にゲームを楽しむのだという考え方でして、スコットランド文化の一つだと思います。そのような文化の下で育ったケーリーダンスなど人々に親しまれていたフォークダンスが現代スクエアダンスの起源の一つにもなっているのです。

現代スクエアダンスはアメリカン・スクエアダンスとも呼ばれあたかも米国が元祖のように聞こえますが、実は古く18世紀初めに、自由の国である米国へ移民した人々が持ち込んだフォークダンスが元になっているのです。
移民はスコットランド人を始めアイルランド人、イギリス人、オランダ系ドイツ人ら異なる国や地域から入植し、米国東部のアパラチア地方に定住しました。最初はピルグリム・ファーザーズ(巡礼始祖)たちがメイフラワー号に乗って米国マサチューセッツ州プリマスに上陸しました。その偉業をなした年号1620を示す文字が彫られた石が大西洋の波がひたひたよせる浜辺の上陸地点に置かれていて、神殿のような立派な建物の中に見ることができます。そしてプリマスは植民地の中心になりました。出港したのがイギリス南西部のプリマス港で、上陸したのも同名のプリマスです。出港も上陸も同じ名前であるのは不思議ですが彼らは故郷を思って命名したのでしょうか。

1707年にはUnited Kingdomが誕生してスコットランドに重税を課したそうです。このためスコットランドのウイスキーは山奥で密かに製造されるようになり、それはmountain dew(密造酒)と呼ばれました。
現在、Mountain Dewという名前の清涼飲料水があります。飲んでみるとレモン味でウイスキーではありませんでした。ちなみにこの年1707年は富士山が大噴火して宝永山が生まれた年です。

米国へ移り住んだ彼らは懸命に働きました。開墾など労働のあとの楽しみの一つはフォークダンスでした。
スコットランドにはリール、スコットランド‐ジグ、ストラスペイ、ケーリーダンスなど様々なスコティッシュ・カントリーダンスがありますが、その一つであるケーリーダンスを例にとってみましょう。このダンスで注目するのは8人が単位(set)となっていることです。社交ダンスのように男女1組が単位として踊るのではありません。4組で構成されていることです。そして4つある組のダンサー全員が向かい合って立ちます。すると正方形(square)になります。また踊っているときの動きの一つには、二つの組が右肩どうしですれ違った後、元の位置に戻っています。この動作は一人のcaller(ダンサーに動作を指示する人)の指示によるものです。8人で作る体系はコールに従い刻々と変化します。これは現在のスクエアダンスと同じです。つまりケーリーダンスの基本が現在のスクエアダンスに引き継がれていることが分かります。現在スクエアダンスのパーティや全国規模の大会では一度に1,000人(130セット)以上が一堂に会し楽しんでいます。これは音響および会場設備の進歩によって可能になりました。

さて、その歴史を大まかに振り返ってみましょう。米国アパラチア地方に定住した人々は別の地域に定住した人々ともフォークダンスをして交流を図りました。出身地は違っていてもフォークダンスのリズムに合わせて即興的に足踏みをして拍子をとるようになってフォークダンスの融合が進みました。
当時移民の玄関口となったNew EnglandではNew England Quadrilleが生まれました。カドリールはフランス起源で宮廷風の優雅さと華やかさを持つ踊りです。それがケーリーダンスなどのフォークダンスに取り込まれました。そして次第にスクエアダンスの原形が形作られました。誰もが知っている音楽に乗せて誰もが分かった振付けで楽しむものでした。しかし南アパラチアのケンタッキー山脈の山奥に定住した農民は他との交流がないため入植当時のままの踊りを続けていて、そのスタイルは早口で物語風に語り、捲し立てるものでした。そのためダンサーが予測もしていない動きになりました。意表を突くコールの度にダンサーも声を出してきっと盛り上がったことでしょう。これは現在パターコール(Patter call or Hash Call)の源流だといわれています。このようにしてアメリカでスクエアダンスが育っていきました。私の知人の米国人は小学生の時学校で教わったといっていましたので、スクエアダンスはアメリカ生まれのフォークダンスとでも言いましょうか。アメリカでは広く普及していきました。

スクエアダンスが日本に上陸したのは終戦の年(1945)の暮れのことでした。長崎市のある料亭での忘年会に招かれたウインフィールド・ニブロ(Winfield P. Niblo)氏が紹介して下さったのが始まりだそうです。
1957年創立した「東京スクエアダンス普及会」に在籍した先輩からの手紙を引用させてもらうと、
「昭和23年(1948)頃、馴染の将校さんたちとバレーボールを一緒にしたことがきっかけでスクエアダンスを教えてもらいました。町々のダンスホールは満員の盛況だったようです。それを見ていたGHQの教育局の将校さんたちの中に日本の青少年に健全な娯楽を、と考える方々がいてスクエアダンスを教えたいということになったそうです。それは今のシンギングのようなものでフォスターなどのよく知っている曲を口ずさみながら(外では蓄音器が使えなかったからです)振付に合わせて向きを変えて歩くものでした」
戦後一気に流れ込んできたアメリカ文化の一つだったのかもしれません。いま日本には一般社団法人日本スクエアダンス協会が活動の中心となり、会員は全国に約一万人を超えています。
スクエアダンスの原型
現在のスクエアダンス
地方行政がスクエアダンスを取り上げた事例を一つご紹介します。
静岡県御殿場市では姉妹都市提携30周年を記念して米国オレゴン州 Beavertonを訪問の際スクエアダンスで市民交流を図りました。スナックを食べながら歓談し、また和やかな雰囲気でスクエアダンスを楽しみました。両市から参加した人々はこの楽しさを忘れることは無いでしょう。
若者の参加の減少が問題になっています。スクエアダンス会場には新しい出会いがあり、楽しい音楽があり、友達もできるチャンスもあります。このような健全な場を社会にもっと広めていきたいものです。青少年育成のためにはもちろん、年配者には健康寿命を維持するため大いに普及することを期待したいと思います。それには国や地方行政がさらに力を入れてもらいたいところです。
日本スクエアダンス協会の井上氏、半田氏、みくりやステップの会の田子氏を始め多くの方々に資料提供などご協力いただきました。誠にありがとうございました。
(中坪敏爾)

Home
Copyright 2002 The Japan-Scotland Society All right reserved ©